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 第八十七話 あなたに涙は似合わない

 姫乃は泣いた。泣いて、泣いて、声が掠れてもずっと泣き続けた。

 そしてその涙を、ハンカチで拭おうとした優菜の手を、姫乃は振り払う。

「あ……っ」

 優菜は傷ついた顔をした。

 姫乃は、泣きながら笑う。

「見くびらないでよ。私にも、まだプライドはあるのよ」

「でも、拭かなくちゃ……」

「貴女には、関係ないでしょう。優菜。もう……貴女には……」

「まだ続いてる! 私達の縁は、続いてるの。それに、姫乃」

 優菜は姫乃にハンカチを差し出した。

「貴女は笑ってる方がずっと可愛い。だって、この世界のお姫様なんだから。そうして、笑顔を見せてよ。——あなたに涙は似合わない」

 微笑みかけた優菜に、姫乃は「どうして貴女は……っ」とまた泣き始める。

 今度は、静かな声で、しくしくと。

 まるで自分の心にその優菜の気持ちを、浸透させるかのように。

「ハンカチ、あげる。だから、このハンカチ使って。もう私のものじゃないから、姫乃がどう使おうが、捨てようが、好きにしてくれていいから」

「……ありがとう」

 姫乃はハンカチを使って涙を拭いた。

 次から次へと溢れ出ていた涙は、次第に止まっていく。

「姫乃、また笑えるようになったら、笑ってね。私をいじめる時じゃない、令と一緒の時に微笑んでいたあの表情が、私は結構好きだったから……」

 姫乃はきょとんとしながら「いじめられながら、そんなところを見ていたの?」と言った。

「うん。いじめられるとね、現実逃避に別のところに目が行ったの。私の場合だから、他の人はどうかわからないけれど。でも、本当に、お姫様みたいだなぁって、綺麗だなぁって思ったんだ」

「そう……」

「ねえ、姫乃はこれからどうするの?」

「これから……」

 その時、姫乃は心の中に強烈な光が差し込むのを感じた。

「姫乃なら、変われるよ」

 その言葉が、あまりにも眩しすぎて、姫乃は逃げたい気持ちになった。

 でも、一度開いてしまった心は、あまりにも素直にその言葉を受け入れてしまう。

 光が強ければ強いほど、影も濃くなる。

 嫌な部分が、自然と顔を出すということ……。

 それはつまり、目を向けたくない自分の姿や現実が姫乃を襲うことを意味していた。

「私は……これから……」

「うん」

「……どこかに、行かなくちゃね。もう、ここにはいられない。私のプライドが、それを許さないから」

 姫乃はそう言って、困ったような笑みを浮かべて歩き始める。

「……姫乃!」

 なんだか嫌な予感がする。

 当たってほしくない、最悪な結末を迎えるような、そんな気がする。

「姫乃!」

 もう一度優菜は彼女の名前をよんだ。

 すると、姫乃は「ついてこなくて、大丈夫。ひとりで……、自分で歩けるから」と言って歩いて部屋を出て行った。優菜は、そのドアが閉まる最後まで、姫乃の姿を見続ける。

 そして、ドアはバタンと大きな音を立てて閉まった。

「これで、優菜はもう安心して生きていけるんだな」

 令がそう言うと、優菜は「……違う」と小さく言った。

「え?」

「安心なんてできない。きっと彼女は、私が考えている中で一番最悪な形で人生を終わらせるつもりだよ……!」

「なんでそんなことが、姫乃でもないのにわかるんだ」

「わかるよ。なんとなくだけど、わかるの。ずっと接してきた彼女のことを考えると、彼女の思考がわかるんだよ。令には、わからないかもしれないけれど。……私、姫乃を助けなくちゃ」

「は? 姫乃を? 勝手にさせておけばいいだろう。お前を、殺そうとまでしたやつだぞ」

「それでも、彼女は私にとって特別なの……」

 優菜は、ドアに向かって歩き出す。

「おい、優菜」

「私、姫乃のところに行く。きっと彼女は、私が終わるはずだった場所に行くはずだから」

「……」

「急がなくちゃ。時間がない。夕方、多分線路かその近くの交差点に行くはず」

 優菜は令に「私の我がまま、聞いてくれる? お願い。姫乃を一緒に探して」と言った。

 令は軽くため息を吐きながら、頷くしかなかった。

 そして優菜と令は姫乃を探して街を走り回った。

 そんなに歩く速さがあるとは思えない。すぐ近くにいるはず。それなのに、何故か姿が見つからない。

 彼女はこんなにも、周囲に溶け込めるような人間ではなかったはずだが……。

 猫のように最期はひとりで迎えたいということだろうか。

(……ひとりになんか、させない。ひとりになったら、寂しいんだよ)

 優菜は必死に声を出しながら姫乃を探した。

 令も同じように、姫乃を探す。

 そしてしばらくして踏切の近くの交差点まで行くと、優菜が令を呼び止めて指を指した。

「見つけた……!」

 姫乃は交差点の先を見つめ、虚ろな瞳をしている。

 長い髪が、風になびいた。

「姫乃ー!」

「……こんなところにまで、何しに来たの」

「何って、姫乃のために来たんだよ。私達、友達になれないかもしれないけれど、ただの縁で繋がってるわけじゃないでしょ。そう簡単に、切れない縁なんだからね」

「やっぱり貴女って、馬鹿なのね」

 姫乃は微笑む。人形のように。

 そして、ヒールを脱いで、ストッキングに包まれた足を地面に落とす。

 そのまま、少し歩いて姫乃は優菜と令に「帰りなさい」と言った。

「だ、ダメ……。ダメだよ、姫乃っ!!」

 優菜が飛び出す前に、令が先に姫乃の細い腰を両腕で捕まえて、抱き留めていた。


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