姫乃はふらりと会社から出ていく。貴重品も持たずに。
いつもと違う姫乃に気づいた優菜は、姫乃を引き留める。
「姫乃さん? どうしたの?」
笑顔で話しかける。姫乃も笑ってこう答える。
「もう、疲れちゃった」
「へ?」
間の抜けた返事しか出来ない優菜の肩を両手でとんと押す。優菜はその勢いで後ろへと倒れた。
それを見ていた令は即座に優菜に駆け寄り、声を掛ける。
「大丈夫か?」
「え、あ、うん。でも、姫乃さんが」
「……姫乃、これは一体どういうことだ」
令は姫乃を冷たく睨みつけるようにして見てそう聞いた。
「……わからない? もう疲れたの。優菜ちゃんに付き合うの」
姫乃はそう言って自分の髪を手櫛で梳いた。
「お子様みたい。いつまでも友達友達って……。私、優菜ちゃんとは合わないみたいだから、友達ごっこ、やめるね」
「……そんな、友達ごっこって」
「本気で友達になったと思った? ふふっ、だとしたら、お笑いね。自分の大好きな人を奪っていった女と、仲良くして何になるって言うのかしら」
くすくすと笑い始めた姫乃を見て、優菜は今までのトラウマを思い出したのか、悲痛な表情を浮かべた。
「それにね、腑抜けになった令も嫌なの。昔みたいな、冷たさを持った人じゃないと、私は幸せになれない」
令は言い返そうとしたが、姫乃の表情を見て、何も言えなくなった。
姫乃は、涙を流しながら笑っていた。
「だから、全部お仕舞い。友達ごっこなんて、何の意味もなかったの……!」
「待って、そんなこと言わないで! 何か誤解とか……、嫌な思いをさせちゃった? だから、そうやって私に仕返ししてるの?」
「……友達なんて無理だって言ってんのよ。何度言わせたら気が済むの。わからない? あなた達は、私に相応しくない」
「それでいいの? 本当は寂しいんじゃないの? あのね、姫乃さん。私、ずっと考えてた。物語の主人公は孤独じゃないんだろうかって。皆の期待を一身に背負って、それでも立って、歩かなくちゃいけない。そうしろって世界が言うから。……だけどそんなの、辛いはずだよ。いくら姫乃さんでも、寂しいはずだよ!」
「あなたに何がわかるの。それに、寂しくなんてない。私にはいつだって友達がいるんだから……」
「それって、誰?」
「はあ? 誰って、そんなの……」
優菜に誰が友達なのかと聞かれて咄嗟に名前が思い浮かばなかった。
それもそのはず。姫乃はいつも友達と言いつつ、周りの取り巻きのメンバーと表面上だけ付き合ってきた。名前を覚えていたとしてもぼんやりで、誰が誰だかわからない。
「いる! 私には友達くらい、いるわよ! あなたとは、違うの! そう、えっと……っ!」
必死に友達を思い出そうとしていた。でもいくら思い出そうにも思い出せるはずがない。何故なら、姫乃に心を開いた友達など、ひとりとしていないのだから。
そう気づいた時、姫乃は世界に自分一人だけが立っているようなそんな気がした。
優菜がまるで自分を可哀想だと哀れんでいるように見える姫乃は、優菜に掴みかかろうとした。
「可哀想だと、そう言いたいの? 自分にだって友達なんていない癖に! 令に見限られたら、すぐ死ぬような馬鹿な女如きが、私をそんな目で見るなぁっ!」
そう言って、今にも優菜を攻撃しようと片手を振り上げたが、令が間に入って姫乃の手を掴むと、そのまま身動きが取れないように腕を捻り上げてうつ伏せにして床に押さえつけた。
「れ、令……っ!」
「優菜は離れていろ」
「……っ!!」
高い金切り声を上げながら、姫乃はどうにか腕を動かそうとした。
しかし、これ以上無理に動かそうものなら、体の構造上無理が生じて一生残る怪我をしてしまうかもしれなかった。
令は姫乃が傷つかないように気を付けながら、優菜に危害を加えられないようにその動きを封じたまま口を開く。
「何故、こんなつまらないことを? お前は、もう少し利口だと思っていたが」
「つまらなくなんかない!」
「くだらない見栄か、ちっぽけなプライドか。何がお前をそこまでして動かす」
「私は……幸せになるしかないの……! 幸せのためなら、何だってするしかない! そうするしか道はない! だから、退いてよ! 私の幸せを踏みにじる優菜を、あいつを、もう、殺すしかないのよ……っ!!」
優菜は忘れていた殺意を向けられ、強い恐怖に襲われる。
ああ、分かり合えないんだ。そんな当たり前のことに今、優菜は気がついた。周りが変わってきたような気がしたから、姫乃も変わってくれると勝手に思い込んでいただけだった。でも、まだ諦めきれない気持ちが残っている優菜は、そんな自分に殺されてしまうかもしれないのにと訴えかける。なのに、心の中の優菜は首を縦に振らない。
令が姫乃に「今後は優菜に近づくな」などと言って、優菜と姫乃を引き合わせないようにしようとしていたが、姫乃はその言葉には答えないで優菜を睨みつけて大声で何かを喚いていた。優菜には、その姫乃の喚き声が何を言っているのかわからない。ただ、優菜の心の中で何か原因があるはずだと声がした。