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 第八十二話 気持ちが悪いのは何故だろう

 その言葉はあまりに気持ちが悪いものだった。

 どんなセクハラよりも、モラハラよりも、パワハラよりも、ずっと強く暴力的で。

 姫乃は自身が生んでしまった疑いと困惑の言葉に翻弄される。

 自分の心がまるで本心と建前とで全く違うかのような、そんな感覚がするのだ。

——彼を、愛したいの? 愛されたいの?

 心の中でそう呟くと、心臓が拒むように大きく鼓動し、思わず胸を押さえつけてしまう。

 こんな気持ち悪さを、姫乃は知らなかった。

 嘘と本当をごちゃ混ぜにした言葉。それに、気づいてしまった。

 何が自分にとって本当なのか、嘘なのか、それがわからない。

 何が正しいのか、何が悪いのか。自分さえよければと思っていたその気持ちさえ、本当は、自分を守るための作られたものだったとしたら……。

 姫乃は、自身を作り上げてきたものがガラガラと音を立てて崩壊していくのを感じていた。

——ああ、気持ちが悪い。

 世界の全てが変わっていってしまう。でも、そんなの嫌。

 今まで通りでいたいのに、そうさせてくれないなんて。

 そんなの、嘘。嘘だと言って。

 そんな風に、姫乃は心を乱す。

 でも、答えなんてもう出ているも同然なのだ。

 こんなにも自分の心が揺れ動き、壊れそうな音をさせているというのに、ただの嘘だったなんて、そんな簡単な話ではない。

 ああ、これは、自分にも隠していた本当の自分の気持ちがあるんだろう。

 そう理解するしかなかった。受け入れることしか、その時の姫乃には許されなかった。

 受け入れられず、拒もうともした。だが、その度に得も言われぬ気持ち悪さが襲い、心に大きな嘘をついているような、そんな気がして気分がどんどん悪くなっていくのだ。

「私は、どうしたらいいの……。私は、私はただ……!」

 そう。ただ、婚約さえすればいいと。

「優菜なんかに負けずに、令と婚約して、結婚さえすれば、幸せになれるって、そう教わって育ったのに……!」

 母親に、そう教わったのに。

「嘘だったの? 幸せになれるって、言ってたのに」

 姫乃もまた、被害者だった。

 幸せと言われていたものは幸せなどではなく、押し付けてきた母親にとっての幸せで、姫乃自身の幸せではなかったのだ。

 幸せが違うものだったと気づいた姫乃。その幸せと自分の幸せのズレがあまりに大きい。

 気持ちが悪くもなるはずだ。他人の幸せを押し付けられて、自分の幸せだと言い聞かせられて、馬鹿のようにそれを信じてきたのだから。

 そしてその信じてきたものが偽物だとわかった今、姫乃はどうするのだろうか。

「もう、引き返せない……。戻れない……。変われるはず、ない。私の生き方は、私の全て」

 気づけば、姫乃は泣いていた。

 膝から崩れ落ち、頬を伝う涙を必死になって手で拭う。

 その姫乃らしからぬ姿を見る者は、いない。

「誰か、誰か助けてよ。あんな優菜でも変われるのだったら、私だって変われるでしょう? なのに、どうして変われないのよ!」

 もう、自分が何を願っているのかさえ、わからなくなっていた。

「お願い。お願い。目を覚ましたら、私はいつものように笑える。そうあって。もう、それしか自分を保てる方法がないの。私は、私しかいないの!」

 悲痛な叫びを上げながら、姫乃は意識を失いたいと願いながら、瞼を閉じた。


「……姫乃、今日も休みなのかなぁ?」

 朝、会社で優菜が令にそう話しかけた。

 ここのところ、姫乃は何日か休んでいる。あの姫乃が。

「……確かに、気になるな」

「何か辛いこととかあったのかな」

「いや、優菜に何かしようとしているのかもしれない」

「ストップ! 私達は姫乃と友達になるの! そういう考えは、なるべくないようにしないと」

「これまでのことを忘れたのか?」

「そ、それはそうかもしれないけれど、信じてみるのも、悪くはないと思うの……」

 そんなことを話していると、部屋のドアが開かれた。

 ドアの先には姫乃がいつものように華やかで、優しく、微笑んで立っていた。

「姫乃さん!」

 優菜がそう言うと、姫乃は笑顔のまま首を傾げてこう言う。

「どうしたの? 優菜ちゃん」

「……」

 明らかに作られた声色に、令は思わず顔を顰める。

 しかし、優菜は嬉しそうに目を輝かせて「お休みしてたから、心配してたの。元気そうでよかった!」そう言う。

 姫乃は品よく笑った。

「ふふふっ。ありがとう。ちょっと、疲れちゃってね。それから、優菜ちゃん、ごめんなさいね。これまでのこと」

 そんなことを言い出した。

 令はその言葉を聞いて鳥肌が立ち、後頭部がぞわりと痺れるような感覚さえした。

 この姫乃は、違和感だらけだ。

「姫乃さん……。ううん。私こそ、あなたのこと、知ろうともしなかった。だから、ごめんなさい。これからは、もっとお互いのことを知って、仲良くなろう!」

 優菜はそう言って、姫乃の手を取った。

 だが、姫乃はその手を引っ込める。

「あっ」

「ご、ごめんなさい。いきなりだったから、びっくりしちゃって」

「いいよ。そういうこと、私もあるから……」

「それよりも、早く仕事しなくちゃ。もう時間よ?」

「あ、本当だ」

「優菜ちゃんも、令も、一緒にお仕事、頑張りましょうね」

 令は心の中で、気持ちが悪いと思った。

 だが、実際に言うことはせずに、二人と一緒にその日の仕事を始めるのだった。


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