今の姫乃が作られたのは、過去の姫乃がいたからだ。
そして、その姫乃の中心にいたのは、いつだって「令」だけだった。
だが、その隣にいつもいつも、邪魔をするように優菜がやって来る。
泣きそうな顔で、姫乃の顔色を窺う優菜。
泣きたいのはこちらの方だと姫乃はずっと思っていた。
いや、きっと泣いていたのだろう。心の中では。
辛くなかったわけじゃない。どんなに完璧だと言われていても、大変だったり、泣きたいことはいくらでもあった。セクハラじみたことをされたことだって、少なからずあった。だが、それを乗り越えた姫乃は、間違いなく、その世界の主人公としての強さを持っているのだった。
そんな姫乃は現在、過去の令と今の令を比べてまるで別人のようだと思っていた。
「昔の令は、本当に、もっと、冷たかった……。それが、心地よかったのに、どうして、なんで。なんで優菜なの。なんで変わっちゃったのよ」
姫乃は悔しくて、しょうがなかった。
だが、令達はどうやら婚約を白紙にする方向で進めているらしいと、風の噂で聞いた。
でも、また婚約するとも……。
意味が分からなかった。だけど、本人達からしたらそれが何より重要なことなのだろう。
今まで見たこともないような笑みを浮かべる令と優菜の姿を思い出した姫乃は、壁を殴った。
——鈍い音。痛む手。でもその痛みこそ、現実なのだと思い知らされた。
「あんなのに、絶対に取られたくなんかない。何の努力もしてこなかった優菜なんかに、また婚約なんかされたら、嫌だ……。嫌だ、嫌だよ……」
姫乃は自分の部屋の中で、膝を抱える。
心の中の小さな自分が泣いている。そして、大きな今の自分を抱きしめて「大丈夫。もうすぐ、きっと終わるから」と魔法の言葉を掛けてくれるのだった。
でも、その「もうすぐ」が何を意味するのか、姫乃は全く考えもしていなかったのだった。
そして、令はというと……。
優菜と一緒に過ごしているのだが、少しばかりスマホの通知音がうるさかった。
見てみると、実家の母親からのメッセージだった。
令の母親は父親もそうなのだが、外面がよかった。だが家庭内では笑顔なんてそう見せない。
そんな両親のことが、今の令は苦手に感じられていた。
「令、どうしたの?」
「いや、少し実家から連絡が入っているみたいだ。気にしなくてもいい。どうせいつもの結婚はいつだとか、婚約を白紙にするなら別の娘をとか、そんなくだらないことばかり書いてあるだろうから」
「え……えっ!? 結婚はいつって、別の娘って……」
優菜はショックを隠し切れなかった。
そんな優菜を抱きしめて、令はこう言う。
「そんなことには俺がさせないから、大丈夫。安心しろ。それに、俺達は婚約を白紙にしても、また結ばれるんだ。親からしたら、どっちにしても同じなんだから、問題はないはずだ」
「うん……。そう、だよね……」
令は優菜の頭を撫でながら、何とも言えない幸せを感じていた。
本当に、こんな幸せを感じることが出来るなんて、子どもの頃から少し前まで、思いもしなかったのだから。
「でも、どうしてお父さんもお母さんも、そんなに令に冷たいの? うちの両親は……わかるんだけど」
「冷たいというか、そうだな……。それ以外、知らないんじゃないか。こういう世界で、同じような人達とずっと婚姻関係を結んできて、優しさに触れられなかった可哀想な一族だ……。でも、必死になってきた、立派な一族でもある」
「そうだね……。大きな一族、だもんね。いろいろあったんだろうなぁ」
優菜は令がどういう環境で生きてきたのかはわからない。そこまでは小説に書かれていなかったのだから。だから、想像することしか出来なかったのだが……。
「気になるか?」
「え?」
「俺のこと。少しくらいなら、話そうか」
「……いいの?」
「ああ、優菜がいいならな」
そして令は語り始めた。
自分の決められた人生、世界について……。
令は生まれた時から、もう既にどう生きるべきか決められていた。
男の子だとわかった時には、跡継ぎとして生きていくことが決まった。
それが「宮坂」の家に生まれるということなのだ。
そして宮坂の家に生まれたからには、成績は常にトップが当たり前、運動だって出来て当たり前。失敗なんて許されない。それだけ大きな家だから、それだけ、一流の財閥だからと子供のころから押さえつけられるようにして生きてきた。
なのに、プライドを持って生きろと教えられる。
「お前は宮坂家の長男だ。跡継ぎなんだ。それ相応の人物になりなさい」
その言葉は寝ていても聞かされるくらいずっと言われ続けてきた。
自分から何かしようかと行動をすれば「余計なことはしなくていい。無駄は省きなさい」と言われてしまう。
そんな状態では、精神が疲弊してしまう。それでも大丈夫だったのは、母親の存在が大きかったようにも思える。
父親の存在に隠れていつも見えないような人だが、令にとっては大きな存在だった。
父親には内緒で、いろいろと褒めてくれたり、悪いことは悪いと教えてくれる人で、その人がいたからこそ、令は今の令でいられたのだろう。
ただ、この母親も、結局は宮坂家に嫁に来たとだけあって、令自身を見ることはあまりなかったように令には思えていた。
何かあると「宮坂家の長男」に何かあったらどうしようといった瞳でよく心配をしていた。
そんな目で、令は見られるのが嫌だったが、慣れるしかなかった……。