あの出来事の次の日、令は約束通り、優菜を迎えに来た。
だが、当然と言えば当然だが、優菜の心には重い影が落とされる。
それは令も感じ取っていることで、優菜の心の泣き声が聞こえていた。
それだけに、何も出来ない自分を情けないと思い、どうにかこの状況を打破しようとしたのだが……、どうしたらいいのかわからなかった。
今まで、こういう状況になどあまりなったことがないし、恋人らしい人と言えば姫乃か優菜くらいしかいなかったのだ。経験がなかった。
出勤途中、令が話しかけても、優菜は「うん」と言って頷くか、無言のどちらかだけだった。表情は暗く、いつもの天真爛漫さがなくなっている。
「何があったのか、話してくれないか」
令がそう言うと、優菜は過剰に反応し、パニックにも近い状態になってしまう。
そんな風になってしまう優菜を見て、令はこうなってしまった原因を知りたかったが、これ以上優菜に思い出させるのはよくないと思い、聞くことをやめた。
「今日は、仕事を休め……。そんな状態で、いい仕事が出来るとも思えないし、お前のことが心配だ」
「大丈夫……、大丈夫だから、仕事をさせて。お願い」
仕事をすることで忘れようとしている優菜からすると、仕事を取り上げられることは辛いことだと、そう思い込んでいた。
だが、実際のところは、休んだ方がよかったのかもしれない。
会社に着いて、仕事をし始める優菜。
洗濯して持って来た制服に着替えると、涙がぽろぽろと零れて、止まらない。
それでも、時間を掛けて服を着替え終わると、ハンカチで涙を拭い、手鏡で見ながら笑う練習をした。
でも、どうしても、上手く笑えなかった。
それでも仕方がない。一人で家に籠っているよりは、ずっとマシだと思った優菜は、そのぎこちない笑みで今日という日を過ごすのだった。
「……この書類、間違いが多いぞ」
「え……、ごめんなさい」
いつも以上にミスが多く、令も指摘するのは本当は嫌だったが、仕事とプライベートは分けて考えているからかそこはしっかりと伝えていた。
優菜は申し訳なさでいっぱいになり、何度も頭を下げた。
「やはり、休んだ方がいいんじゃないか。何なら、あとはもう休んで、話をしよう……。それで、楽になるのなら、俺は付き合う」
そう言われたのだが、優菜は首を縦に振らない。
「仕事をしていると心が安らぐの」
嘘ではなかった。ただ、目の前にあることだけをやっていればいい仕事は、何も考えなくて済んだからそれでよかったのだ。
しかし、話をするとなると別だ。昨日あったことを話さなければならなくなる。ということは、思い出さなければならないのだ。そんなことになったら、辛くなることは優菜が一番わかっていた。
怒りも、悲しみも、自分に対する呆れも、そういった負の感情が蘇る。
だからこそ、言いたくなかった。
「……そんなになってまで、言えないことなのか」
令にそう言われて、優菜はこくりと頷いた。
「言えないの。言ったら、令はきっと私のこと嫌いになっちゃう」
「そんなことはない。だから、出来ることなら言ってほしい」
「ねえ……。令、知ってる? 人間って、思い出すと、その時の感情をまた繰り返してしまうんだって。令は、私にもう一度、あの時のことを繰り返させたいの?」
「……っ。そんなつもりは……」
「だったら、話さないよ。私が話さないことで、守られる私もいるの……」
優菜は必死になって自分を守る。
令にとってはそれが不安にさせる材料にでもなってしまうかもしれない。
それでも、優菜は、自分のことだけで今は精いっぱいなのだった。
どうしても、令には言えない。何をされたかなんて。
何を、思ったのかなんて、言えるわけがなかった。
優菜はその後、仕事をしていたが、やはりミスはなくなることはなく、むしろ増えていき、令が強制的に途中でやめさせた。
優菜は仕事をやめさせられると「わかった」とだけ言って、暗い顔をして席に座ったまま、あと少しで訪れる終業時間が来るのを待っていたのだった。
そうしていると、優菜はどうしても許せないことがあった。許せない人が、いた。
それはもちろん、姫乃のことだった。
ランチなどと言って無理矢理人を誘い、そのまま繁華街、それも歓楽街に近いところへ連れて行くなんて……。
そこで味わった屈辱を、辛い思いを、優菜は一生心に傷として残すことになるだろう。
優菜は怒りで、泣きたくて仕方がなかった。
心の中では泣き叫んでいたが、実際には泣けない。こんなことで泣いて堪るかと、無理矢理自分に言い聞かせて涙を流さなかった。
会社に……、姫乃がいるところでは……。
(姫乃を許せない……。姫乃さえいなければ、私は平穏な日々を過ごせたはずなのに。この世界だって、姫乃のためじゃない、普通の世界だったはずなのに。全部、全部姫乃が悪いんじゃない。なんで私がこんなことで悩まなくちゃいけないの。なんで、なんで)
優菜はそう思っていると、終業を知らせる音が鳴った。