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 第四十二話 あの頃

 三日程経ったある日、陽は仕事が休みだったのか、一日中優菜にべったりだった。

「優菜がこうして俺の隣に居てくれる……。幸せだなぁ」

「……」

 優菜はどうしてここまで陽が自分に執着しているのかがわからなかった。

「どうして、陽はそこまで私に執着するの? 私、そんなに陽に対して何かしたかなぁ」

「してくれたよ。たくさん。覚えてないなんて、そんな悲しいこと、ないよね? ほら、昔のさ……」

 そして陽は語り出した。昔の出来事を。

 昔、優菜は生みの母が亡くなって、それを悲しんでいる時に陽と出会った。陽は陽で、うつ病を患い、苦しんでいるそんな時のことだった。

 お互い、惹かれ合うようにして出会ったのだ。

 陽からしたら、その運命的な出会いは、一生忘れられないものだった。

 そして、優菜と陽はお互いの胸の内を話し、傷を舐め合うようにして、お互いに辛かっただろう、苦しかっただろうと慰め合う。

 お互いの苦しみを、悲しみを、吐き出せただけで、二人は救われたような気がした。

 だが、この時、陽は優菜のことを特別視してしまう。

 それが、今回の行動の原因だったのだ。

(こんなにも想ってくれるのはこの人だけだ。優菜だけ。だから、俺が優菜を守るんだ)

 最初は、とても純粋な気持ちだった。

 そしてそれから毎日のように会って、お互いの寂しさを埋め合う。

 いつも会うところは同じところで、陽はそこを心の中の思い出の地にした。

 優菜も、友達が出来た場所として認識はしていた。

 しかし、その想いの強さは、優菜と陽とでは大きく違っていた。

 正しくは、想いの種類が違っていたのだ。

 陽は優菜を崇拝し、真っ直ぐすぎる愛情を向けている。

 だから、最初、陽は自分と絶対に相容れない存在の令が優菜の婚約者であると知った時には驚いた。何より、優菜が可哀想になった。

 あんな冷酷な人間のところに嫁ぐことが決められているなんて……と。

 だから、優菜が婚約を白紙にしたいと思っていると知った時には、自分にもチャンスが回ってきたとさえ思った。

 ただ、何故だろう。優菜には昔から自分達とは壁があるように思えて仕方がなかった。

 いつも顔色を窺っていて、それが余計に周りのいじめたいという気持ちをくすぐるから、また厄介だとも思っていた。

 ……その、厄介さを、自分がカバーしよう。そう、陽は思ったのだ。

 何かあったら、すぐに駆け付けよう。何かある前に、動こう。優菜のために、全てを捧げよう。そう思えるほど、辛かった頃の陽を救ったのは優菜なのだった。

「……わかんないよ。私、陽をそんなに救ったなんて、想ってないから」

「それでも救われたんだよ。俺は。だから、救ってくれた女神様のような優菜を守るのは、当たり前だろ」

「……やっぱり、わからない」

 そんな時だった。あの糸目の男から陽にスマホで連絡が入ったのだった。

「何」

「何って、酷いなぁ。あの令って男が動いたから連絡したんだけど。要らなかった?」

「……今更になって、あいつが何を出来るって言うんだよ」

「あ、場所は教えておいたから」

「は? どういうことだよ!」

「俺は、金さえ払ってくれればいいの! ってことで、教えておいたからさー。あとはよろしく。俺もそろそろこの場所離れたいって思ってたから、丁度いいんだよね」

「あ! おい!」

「さようなら。結構、面白い……ってほどじゃないけど、いい金額くれてありがとね」

 そして通話は切れた。

 陽はスマホを壁に投げつける。

 優菜はびくりと身体を震わせ、怯えた目で陽を見る。

 陽はその視線に気づき、慌てて優菜の頭を撫でながら「ごめん。怖がらせるつもりは全くなかったんだよ。ただ、ちょっとイラついてしまったんだ……。本当に、ごめん」と言った。

 そこへ、今まで一回も鳴ったことのないインターフォンが鳴った。

「……誰だよ。こんな時に。もう、令が来たとか……じゃないよな……。でも……」

 そうぶつぶつ言いながら、陽は部屋から出て行った。

 優菜はふとドアを見てみると、わずかに隙間が開いているのが見えた。

 優菜は足音を出来る限り立てないようにして、ドアから外を覗いた。

 廊下の先で、陽が誰かと言い合っているようだった。

 絶対に令だ。令が助けに来てくれたんだと思い、優菜は部屋を飛び出した。

「令—!」

 優菜は陽とドアの隙間をくぐり抜け、外へ出る。

「優菜!」

 そこには、もちろん優菜の待っていた令が居た。

 令は優菜を抱きしめ、優菜も令を抱きしめる。

 陽はそれを見て、呆然としていた……。

 なんでこんな事態になっているのか、わからないといった様子だった。

「何か酷いことは……されてない、か。陽のことだから、優菜を酷く扱うなんてまずなかったはずだが……。でも、優菜の自由を奪ったことは許せない」

「いいの。もう、いいの……。陽、私、帰るね。令と一緒に」

 陽は嬉しそうに令に「待たせすぎだよ」と言っているのを聞いて、酷く困惑していた。同時に、悲しいという感情も、波のように押し寄せてきたのだった。

「待って、待ってよ。優菜」

「まだ何かあるのか」

 優菜の代わりに、令が答えた。

「お前には言ってない! 優菜、そんな男より、俺と一緒に居よう? そいつがいると、お前は不幸になるんだよ。今までだって、きっとこれからだって……。それに、婚約を白紙にしたいんだったろ?」

「……優菜、その話は、俺も聞きたい。今は、どちらなんだ」

「……」

 優菜は悩んだ。ここで、白紙にするともう一度告げてしまおうか。でも、そうしたら……。

——そうしたら、自分の恋を諦めざるを得なくなる。

 優菜はそんなことは嫌だと思った。でも、頭の中でこの世界の作りについてを思い出す。この世界は姫乃が優位に立てる世界。姫乃のための世界。でも、それでも、もう……。

 自分に嘘を吐きたくない。

 優菜は自分を信じることにした。そして、令も信じると決めた。

「私は、婚約を白紙にしたくない……!」

 令はどこか安堵したような表情を浮かべ、陽は目を見開いて驚いていた。

「なんで。だって、優菜はあんなに嫌だって……」

「私、気づいたの。自分の気持ちに嘘を吐くことが、嫌なんだってことに」

「何だよ。それ……!」

「陽が、私のことを好きだってことを利用、してたみたいで、心苦しいんだけど……。でも、そういうことだよね。私、本当は、令のことが好き。ただ、事情があって、これまで好きじゃなかったし、離れたいと本気で思ってたの。だけど、今は違うんだよ」

「……」

「私は、令のことが、好き」

 その言葉を聞いた陽は、優菜の背中にポンと手を当てて背中を押した。

 令とより近づくように。

「陽……?」

 優菜が不思議そうにそう聞くと、陽はぎこちない笑みを浮かべてこう言う。

「行けよ。俺が入る余地なんてないって、わかったから。もう、俺には無理なんだろ。令の代わりも、恋人になることも。優菜を、守ることさえも……」

「……陽、ありがとう」

「令、任せたぞ。いいな。優菜を、泣かせたら今度こそ連れ去って海外に高飛びするからな」

「そんな必要はない。だが、俺からも一応礼は言っておく。優菜が苦しい時に、居てくれたんだろう……」

「うっせえ。お前には言われたくない。それに、俺だって、プライドや、好きな人に見せたい格好ってもんがあるんだよ。最後くらい、いい格好させろよ」

「やっぱり、俺はお前が嫌いだ」

「こっちだって。でも、任せたからな。もう、俺はお前達の前には現れない。会ったら、何かとお互いに嫌になるだろうからな。ほら、もう行け。優菜、元気でな」

 陽はドアを閉めた。

 令と優菜は手を繋ぎ、その場を去っていった。

 陽は家の中でドアにもたれ掛かり、涙を流す。

「好きだった……。本当に、好きだったんだよ。優菜」

 それから少しして、陽はその家から離れた。

 そして、もう二度と、二人の前には現れることはなかった。


「ねえ、令」

「なんだ?」

「私、休んじゃった日のこと、会社ではどんな扱いになってるの……?」

「病欠、ということにしてある。本当はいけないことなんだが、ある意味病欠で合っているだろうなと」

「え?」

「陽の恋の病で優菜が欠勤を略せば……」

「っぷ、あはは! 令でもそんなこと言うんだね!」

「……あまり、笑うなよ。言ってて恥ずかしかったんだ。これでもな」

「嘘。凄い飄々とした表情で言ってたけど?」

「お前、少し性格悪くなったんじゃないか?」

「そんなこと、ないよ。悪くなったんじゃない。素を出せるようになっただけ」

 優菜の顔は、晴れ晴れとしていた。

「でも、令には仕事の面でも負担掛けちゃったね。ごめんなさい……」

「そんなの、気にしなくていいさ。こうして無事に帰ってきてくれたんだから」

「ありがとう」

 二人はそうして、久々に優菜の家に帰った。

「あ、そういえばスマホ……忘れて来ちゃった。どちらにしても、もう、使えなかっただろうけれど」

「スマホを? 大体想像できるが、……あいつ、ろくなことをしないな」

「私のためを思ってのこと、だとは思うけどね。……明日、スマホ買うよ」

「その方がいいな。本当なら今すぐにでも買いに行きたいが、時間が時間だ。相当待たされるだろう」

「だよね……」

「それより優菜」

「うん?」

「俺のことが好きって、本当か……?」

 とても真剣な目で令が優菜を見ていた。

「……うん。本当。だから、婚約を白紙にっていうのも、なくしてもいいって思ってる。その証拠に、指輪、今も大事に着けてるの」

「……そもそも、どうして婚約を白紙になんかしたかったんだ」

「それは……うん。わかった。これからのことだもん。ちゃんと、話すよ」

 優菜は、どこからどこまで話すのかをざっと考えて整理した。

 ここが小説の世界ということを除いて、ほとんど話してしまおうと、優菜は決めた。

「あのね、令。これから話すことはとても信じられないことだと思う。だけど、私が本当に、本気でそれを言ってるってことを、信じてほしいな」

「わかった」

 優菜は「長くなるから、コーヒー淹れるね」と言って、コーヒーの準備をする。

 令はそんな優菜の後姿を見て、心を読もうかと思ったが、そんな必要はないと思い、先にソファーに座って待つのだった。


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