「スマホ、返すね。優菜の大事な思い出が詰まってるんだもんね。……あ、でも、写真見てて安心したよ。令との思い出があまりないみたいでさ。だってほら、あいつがいると、ろくなことがないし……」
「……」
この人は、何を言っているんだろう。
そう思わざるを得ない。優菜は中身を全て見られたであろうスマホが、手元に戻ってきて嬉しいとも何とも思わなかった。
外界とも絶たれてしまった、ただの思い出を見返すだけの箱。
その思い出さえも、ほとんど数がない。
あってもスイーツの写真や洋服の写真ばかりで、自分や令が写っている写真などなかったのだ。
それは、自分に自信がないということと、令に恥ずかしくて言い出せなかったために撮れなかったことが原因だった。
ただ、今回はそれがよかったようで……。
陽は少しばかり機嫌がよかった。
令のことを毛嫌いする陽のことだから、令の写真でもあろうものなら何かされていてもおかしくはないと優菜は思ったのだ。
実際、そうだったに違いない。
「とにかく、優菜のスマホが綺麗でよかった! 俺、凄く心配してたんだから!」
「……そう」
「……何その反応」
陽は先程までにこにこしていたのに、急に声が低くなった。優菜はびくりと肩を震わせる。
「少しくらい、俺にもお礼とか言ってくれてもいいんじゃないの? こんなに心配してやってるのに……。なんで、そういうことをするかな」
「わ、私、何もしてないよ……」
「してるよ。今だって、俺の心?き乱して……。ねえ、まさかと思うけど、令と何かあった? だから、そんなに俺に対して素っ気ないの? あんなやつと、本気で婚約する気じゃ、ないよね? 白紙にしたいって言ってたの、優菜だっただろ?」
「令とは何もないよ。素っ気なく見えるのは、怖いから……だと思う。婚約は、わからない。わからないよ……」
「何それ。じゃあ、はっきり言っておくけど、令と優菜じゃ……。あいつは、相当なお坊ちゃんで位がめちゃくちゃ高い、優菜は言っちゃ悪いけど、落ちぶれた貴族出身みたいなもんだし……。だから、合わないんだよ。あいつは一般人とはやっていけない。ましてや、優菜みたいな優しい子には不釣り合いだ。あの冷酷さ、知ってるでしょ。それを知っておいて、なんで今更婚約しようなんて思ってるの。絆された? 残念だけど、それは全部あいつの嘘だから。あいつは人のことを動かすためなら平気で嘘だって何だって吐ける男なんだよ」
陽は優菜の身体を抱きしめながら、耳元で言い聞かせるようにそう言った。
優菜はそんなことはないと「酷いこと、言わないでよ」と言った。
すると陽は少しばかり腕に力を入れる。
「令に初めてでも、奪われたの?」
「何、言って……」
「……まあ、いいや。上書きしちゃえば、いいんだから」
「何のことか、わからないんだけど……っ」
優菜は陽にベッドに押し倒され、そのまま強引に口づけをされた。
「ねえ、子ども何人欲しい? 俺との子ども……」
「子どもって……! 私達、付き合ってもないじゃない。どうしちゃったの。陽……っ」
「やっぱり二人くらい欲しいよなぁ……。男の子と女の子で。産むのが俺じゃないから、大変だとは思うけど、でも……きっと幸せにするから……」
「わかんない! 怖いっ! 幸せだとか言われても、私は今幸せじゃないもん! 子どもがどうとか言われても、私は、陽とは結婚しないんだから! お願い。元の陽に戻って……」
「元の俺って、何? ずっと我慢し続けること? 俺もう嫌だよ……。これ以上、優菜のことで我慢するの。俺、十分待ったでしょ。ずっと、我慢し続けてきたでしょ。なのに、なんで……」
その陽の瞳は暗い闇色をしていて、正気か定かではなかった。
優菜は反抗するのはあまりよくないと思ったが、どうしても身体だけは守りたかった。そのため、ある程度の言葉は許容したかに見せ、心の中では拒むという方法を取ることとしたのだった。
「あの、陽……。その、今まで、想っていてくれたの、今知ったの。だから、急にそうぐいぐい来られると、ちょっと困るというか……」
「……それ、本当?」
陽は少しばかり疑っているようだった。
そこで優菜は「本当」と真剣な顔をして言った。
「はあ……。鈍感な優菜には参っちゃうよね。でも、わかったよ。確かに、急ぎすぎると転ぶからダメだよね……。ごめんね。優菜の気持ち、無視するように俺だけ突っ走っちゃって」
陽はがっくりと項垂れながら、いつもの笑みを見せて優菜の頭を撫でた。
そして座り直すと、優菜を起こし、優菜を隣に座らせる。
「じゃあさ、結婚から、考えよう?」
ダメだ。全く話が通じない。本当に、どうしてしまったんだろうと、優菜は頭を抱えた。
「子どもは、いきなりすぎたから、今度は結婚の話からって思ったんだけど……」
「……それも、ちょっと。私達、友達なんだから」
「あ、そっか。恋人からか」
「……」
違うけれど、ここで何か言ったら、もっと変な方向に向かって行く気がする。
優菜は口を閉ざした。
「恋人になったら、いろんなデートに行きたいなって思ってたんだ。思い出の場所にも行きたいし、一緒に海外旅行だって行きたい。もちろん、国内旅行も。いっそのこと、世界中旅してさ、俺と一緒に飛び回って……。そうすれば、いつも寂しい想いをさせないし、変なやつだって、俺が何とかしてやる」
「……うん」
「でも、まだ優菜は俺に対して嘘を吐いているというか、隠してることがあるように思えるから、しばらくはこの部屋で過ごしてもらうよ。逃げられたら、嫌だからさ」
「……逃げないよ」
逃げられるはずがない。ここがどこかはわからないし、靴もない。お金もないから帰れない……。運よく交番で警察に保護されたとしても、きっと令とはもう……。そんなの、嫌だ。もし、令と別れることになるにしろ、令とは、ちゃんとした形で別れたいし、今は、別れたくない……。欲張りな女だと、きっと昔の優菜ならば思ったし言っただろう。でも、今の優菜はその欲張りさがなければ、生きていけないのだ。
「あ、そうだ。俺ちょっとした仕事があるから、少しの間ここから離れるけど、その間に逃げたりしないでね。まあ、逃げられないようにしてあるけれど」
そう言って、陽は優菜にキスをしてから部屋を出て行った。
(どうしよう。帰りたい。帰りたいのに、帰れない……)
一応、スマホを見てみた。だが、やはりスマホのインターネットは使えないし、メッセージアプリも男性のメッセージは全て消されていた。友達登録は辛うじて残されていたが、どちらにせよ、このスマホで外と繋がることは出来ないようだ。
「……本当に、出られないのかな」
そう思った優菜は、部屋から出られないか確かめようとドアの前に立った。
そして、ドアノブに手を掛ける。
ガチャリ、と動きはするものの、鍵が掛かっていて外に出られない。
ビルが下に見えるくらい、高い建物だ。窓から出る、というのはありえない。
ドアノブの辺りをよく見てみると、鍵穴がないことに気づいた。
「これ、電子キー……? だとしたら」
もし、そうならば、絶対に逃げられない。
そういう設定にされているに違いないから。
優菜はため息を吐いて、その場に座り込んだ。
そしていつまでもそこに座っているのも……と思って、ベッドに座るようにして、何もないがらんとした部屋でひたすら外だけを眺めていた。
(外には、令もいるのに。でも、もしかしたら私のことなんて探していないかもしれない。優しいけれど、でも、結局のところ、私に利用価値がなくなったら……)
考えるのも恐ろしいが、そう思わずにはいられなかった。
本当のところ、優菜も令に愛されているのかよくわかっていなかった。はっきりと好きだと伝えられたこともないし、何せ学生時代は全てスルーされてきたのだから。
だが、それでも令を信じたいと思う気持ちの方が勝っていた。
「お願い、令……。どうにかして、私を助けて」
そう呟くが、誰もその言葉に答えを返してくれる人などいなかった。
代わりに、呪いの言葉を紡ぐ人間が入ってきた。
「それは出来ないと思うよー」
そこに居たのは、糸目の男だった。
「な、なんであなたが……!」
「なんでって、俺は雇われたからね。雇い主様に言われた通り、君を見張るだけだよー」
「陽が……? どういうこと?」
「つまり、金で俺は雇われてるの。前の雇い主様よりもずっといい金額で。そして君を守れとも言われている。よかったね。優しい人で」
「ちょっと待って、状況がわからない……。なんであなたが。前の雇い主って誰? 陽は、あなたに何て言って私のところに寄越したの?」
信じていたものが、一気に崩れ去る音がした。
優菜の陽への信頼が、失われていく。
「前の雇い主は、君のことを疎ましく思っていた人。今の雇い主様は、君のことが余程好きなんだね。君の平和を金で買ったんだよ。ただし、ずっと檻の中のような暮らしだけれど。ああ、檻というより、鳥かご……かな? 彼は、俺に君を他のやつらから守れってそれだけ言っていたよ。だから、俺はそれに従うだけ」
「そんな……」
「だから、君の婚約者とも会わせないし、もし来たら俺がその婚約者をどうにかしなくちゃいけないの。どんなことをしても、君を守れと言われているから、生死を問わないって解釈してるけど」
優菜は信じられない気持ちでいっぱいだった。
(いつの間に、取引なんかをしていたのだろう。そもそも、お金を渡しているというのは雇っているからだったの。だとしたら、私を、人間をお金で買ったようなものではないだろうか……。なんて、なんてことを……っ)
こうして、自身の自由や平和、外界との関わりを全て陽が握っていることがわかると、優菜はあまりの衝撃で、しばらく動くことも考えることも何も出来なくなってしまった。
それを見た糸目の男は何も言わずに優菜の髪を撫でてこう言う。
「可哀想なお姫様。でも、よかったじゃない。王子様がいて。二人も王子様はいらないんだから、諦めなよ」
そして、この日から、陽にとっての偽りの幸せ生活が始まるのだった。