優菜と令が一緒に働くようになってから数日経った。優菜は令と仕事をしていると、余分な心配をしなくてもいい上に、仕事をしっかりと教えてくれることもあり、やりがいを感じられる。初めて、仕事が楽しいと思えるようになったのだった。令はそんな優菜の楽しそうな姿を見て、もっと早くにこうしていればよかったと思った。そうしていれば、優菜がいじめられることも、全てをなくすことは出来なかったとしても、少なくは出来ていただろう。それが出来ていれば、優菜が泣くことも、なかったかもしれない。心を壊しそうになることも、なかったのかもしれないのに……。
しかし、そう思えてくると令は不思議なことを思い出す。何故、あんなにも頑なに優菜ではなく、姫乃を信じようとしたのかということだった。正直なところ、あの頃は本当に姫乃だけが真実で、優菜のことは姫乃の真実で語られる中の人物と思っていたため、姫乃の真実という嘘に惑わされていた令には、優菜の本当の姿がわからずにいたのだった。
意図的に、姫乃は優菜の真実の姿を歪めていた、ということになるのだろう。思えば、令は優菜のことを姫乃から良くは聞かされていなかった。そのせいで、社会人になってからもそのままの感覚でいたのだが……。とんでもない間違いだったと、今更になって思うのだった。
これから、いい関係を保つために、令は優菜に何をしてあげられるだろうかと考える。昔のようなことを繰り返してはいけないと思うと、やはり優菜を裏切らないことが一番だろうが、目に見えてそれがわかればいいのに……と思うのだった。だが、きっと優菜はわかってくれる。そう信じ、今まで通りの生活を送ることにしたのだった……が、これから先、本当にそれでよかったのかと悩むことも出てくると、令は知らずにいたのだった。
「令、どうしたの? なんだか難しい顔してるよ……。作ってきたお弁当、何か変なのとか入ってた……? 変な味とか、してない? 大丈夫?」
優菜が昼休みに難しい顔をして優菜の作って来てくれた弁当を食べている令にそう話しかける。
「いや、優菜が作ってくれた弁当は美味しいよ。少し、仕事のことで……な」
「仕事? 今は、昼休みなんだから、少しは離れた方がいいよ……?」
「……ああ、そうだな。それにしても、随分と可愛らしい弁当だな」
「気に入らなかった? 猫ちゃんのおむすび……」
「いや、そういうわけではないんだが……」
「……確かに、令には可愛らしすぎるかもしれないけれどもね」
「そうだろうな」
こんな風に、いつまでも穏やかな時間が過ごせたらいいのにと、令は思うのだった。
一方で、優菜はというと、自分がどうするべきなのかを悩んでいた。
自分が生き残るためには、どうしたらいいのだろうかと、そう考えるとやはり左の薬指にある指輪は……と思ってしまうのだった。
でも、その指輪はどうしても外したくないと思っている優菜は、自身の生存を一番に考えながら、令と一緒に生きる道はないかと模索することに決めようか……と心を揺らしている。自身が一番生きやすく、そして将来自由に生きるためには。
——姫乃の呪縛から逃れるためには、どうしたらいいのだろうか。
そう考えていると、自然と指輪を触ってしまうのだった。
令はその様子を見て「どうかしたか」と声を掛ける。
優菜は口を少しだけ開き、話そうとしたが言いかけてやめる……。
やはりこんなことを話すべきではない。ましてや、話してしまったら、この世界自体がどうなるのかさえもわからないのだから。
これ以上、自分の知らない世界になったら、それこそ手の打ちようがないのだから。
しかし、それを知っているかのように令はこう言うのだった。
「優菜、ずっと俺に隠していることがあるだろう……」
「……」
「まだ、言えないことなのか……? そんなに俺が頼りないか?」
「違うの。言ったら……。前にも、言ったけど、言っちゃ、いけなくて……。言いたくても、言えないの」
「今は、という意味でいいか?」
「それは、多分、これからもずっと……だと思う。ごめんなさい。言いたくても、言えないから」
「それは命令されてのことか?」
「そうじゃないの。誰かに言われたとか、そういうことではないから、そこは安心してほしい。……ほら、仕事の時間だよ。仕事しよう!」
「……」
令は納得がいかないといった様子だったが、これ以上優菜に聞き続けるのもどうかと思い、聞くのをやめた。
優菜は罪悪感でいっぱいになりながら、仕事をする。本当に、自分が生きていられるか、わからない世界で、自分の命があっけなく散ってしまうかもしれないなどと他人に言えるはずがなかった。たとえ、相手が自分が、好きになってしまってはいけないのに、好きになってしまった相手だとしても。
(このまま、この関係がずーっと、続けばいいのにな。命を脅かされることなく、穏やかに生きられる、今の時間がずっと続けば……それでいいのに……)
思い返される前世での記憶。まだしばらく猶予はある。だけど、それまでに、自分が出来ること、そして何を優先したいのかなど、一度整理した方がいいかもな……と思うのだった。
その頃、姫乃は心が荒れていた。いつまで経っても令が自分のところに戻ってこない。それも、自分の気に入らない優菜と令が一緒にいるというのが特に気に入らない。優菜のことがあまりに憎くなってきた姫乃は、いよいよあの男に連絡を取ったのだった。
「もう、あの子のこと好きにしちゃっていいわよ。あなたの好きなようにしてあげて?」
電話でそう言うのだった。
「えー、いいのー? じゃあ、あなたとの電話もこれが最後ってことだ」
「そう」
「ま、これだけ長く飼われてあげたのは俺の中ではかなり特別なんだけどね。じゃ、ばいばい。雇い主さん」
「もう二度と連絡しないから、あなたからも連絡しないでね」
「わかってますって」
電話を切った姫乃は、優菜が泣く姿を思い浮かべると、薄っすらと笑みを浮かべていた。
これで、笑っている優菜を見るのはもう少しだけだろうと、そう思って。
「さてと、あいつも捨てなくちゃね」
姫乃は最近遊ばせていた優菜の先輩の男性社員を、いともたやすく捨てると判断した。
これ以上、手駒として持っていても意味がないと思ったからだ。
また、そのやり方がまどろっこしく、姫乃の好きな人の傷つけ方ではないのも大きな原因の一つだった。
そしてそれを、終業時間後に直接その男性社員に告げるのだった。
「あのね。あなた、もう要らなくなっちゃった……」
「ど、どういうことですか。姫乃先輩。俺、今優菜の懐に入って……」
「入れてないよねぇ? その様子だと。それって、全く意味がないんだけれど。わかるよね?」
「だって、そんな……。俺は、先輩のために……」
「……結果が出せないなら、いなくても一緒じゃない。もういいよ。何もしなくて。あと……。今後私に近づかないでね」
「先輩! ……姫乃、先輩」
男性社員はそこに取り残され、姫乃は一人で先に帰ってしまった。
「なんで、俺が捨てられなくちゃいけないんだ……。全部、全部優菜が悪いのに。そうだ。優菜が悪いんだ。全部、そうなんだ。……姫乃先輩見ててくださいね。明日、きっと姫乃先輩は俺のことを好きになってくれる、から……」
男性社員はネクタイを緩めてまだ社内にいるであろう優菜の姿を探して歩き出した。
「じゃあ、令。私、帰るね。今日も遅くまでお疲れ様。今度、また遊びに行こうね……!」
「ああ、楽しみにしている」
優菜は令の部屋のドアを閉め、廊下を歩いていた。
すると背後から突然襲い掛かられ、口にネクタイを噛まされてしまい、悲鳴を上げることも出来ないまま、男子トイレの個室に連れ込まれてしまった。
「んー……っ!」
優菜は必死に抵抗するが、全く動けない。
「このまま、お前を酷い目に遭わせれば、きっと姫乃先輩は俺を見てくれる。俺を見てくれるんだ」
(この人、何をするのかわからない……! 怖い! 助けて……! 令!)
「……優菜!?」
令は走った。段々と泣き叫ぶように変わっていく声を頼りに、会社のあちらこちらに行き、優菜を探す。しかし、なかなか見つけられない。
その間にも、優菜は暴力を受けていた。手足を縛られていない分、優菜も最初は反撃していたのだが、男性社員がそれにイラつき、さらに暴行を加える。次第に優菜は無抵抗になっていった。
(やっと、やっと静かな生活になってきたのに。穏やかな、日々がやって来たのに……)
涙を流しながら、優菜は男に与えられる暴行をただ受け続けるしかなかった。
やがてそれは言うのも恐ろしいような蛮行に移ろうとしていたのだが、ようやく間に合った令は、その男を引き離し、優菜を助け出した。
「貴様、俺の優菜に何をしている!」
「何なんだよ、お前……。前は、もっと姫乃先輩の味方をしてたのに。急にこいつの肩を持つようになって。おかしいだろ……。わ、わかった。こいつが、魔女か何かなんだ。だから、だから!」
令は優菜を抱きしめる。優菜は男によって腕や腹部を殴られていた……。そのため、痣が出来てしまっているのだった。痛々しいその痣を見た令は、とても男を許せる気がしなかった。
気付けば令は男を殴っていた。
「もう、この会社に居場所はないと思っておけ。俺の婚約者に……、こんなことをしておいて無事でいられると思うな」
「どいつもこいつも……。俺が何をした。俺が……何を……」
男はどこかへと去って行った。
その後、男は会社を一身上の都合により退職し、再び平和は訪れたが……。
優菜の身体には痣が残ったままだった。まだしばらく、治るまで時間が掛かりそうだった。しかし、服で隠れる部分だったのが幸いし、周りには気づかれないのだった。
令は、二人きりになると、痣がどうなっているのかと優菜に何度か聞くことがある。しかし、しつこく聞いたり、見ようとしたりはしないため、優菜は気が楽だった。
そして痣が治りかけで、まだ痣が見える状態の時に、また、あの男がやって来るのだった。
優菜だけが歩いている時、いつもの、あの人気のない帰り道で……。