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第三十七話 一緒

 優菜が月曜日に出勤すると、正式に令の下で働けるように異動命令が出ていた。

 それも、引継ぎなしで即日という異例だった。

 思わず優菜は元の部署に行かずに、真っ先に令の部屋に行くと、そこには先に姫乃が来ていて、何やら令と言い争いをしているようだ。

 言い争いというよりも、ただ一方的に姫乃の方が騒ぎ立てているようだが……。

「こんなのおかしいでしょう? 令だって、わかるはず。仕事に私情を入れるなんて……!」

「お前だって、そうしていただろう。部長になって俺に近づこうとしたじゃないか。それだって、私情と言えば私情じゃないのか」

「あ、憧れの人に近づくことのどこか私情なの……? 令は、そうまでして私を悪者にしたいの……?」

「そういうわけではない。ただ、優菜はあちらの部署よりもこちらで働いてくれた方が効率もいい。能力なども考慮した上での異動だ」

「ねえ、令。考え直して……」

「これは社内で決めた人事からの正式な通達だ。異論があるなら、もっと正式な手順を踏んでもらおうか」

「……令、変わっちゃったのね。私、前の令の方が好きだった……な」

 そう言いながら、姫乃は令の部屋を出て行った。

 優菜に気づくと、優菜の方を見てにこりと微笑み「異動、よかったね。頑張ってね」と言って、すれ違う時に小声で「私の令の下で」と冷たく発した。

 優菜はその声の冷たさに驚き、固まっていると令が「優菜。おはよう」と声を掛けてくれる。優菜はその声で、「あ、う、うん。おはよう……。でも、あの、その。姫乃さんの肩を持つわけじゃないけれど、あの異動は……」と言うと、令は「気に入らないなら、戻すことも出来るが」と言って優菜は言葉が出なかった。

「……冗談だ。それから、ロッカールームも使わなくていい。俺の部屋に簡易だが更衣室も作ったし、鍵付きのロッカーも用意した。使ってくれ」

「そ、そんなにしてくれなくても、大丈夫なのに……」

「大丈夫なやつが、あんな風にはならない。俺はもう二度と、あんな優菜を見たくない。それに、優菜が壊れてしまったら、元も子もない」

「じゃあ、やっぱり……本当に、一緒に仕事、出来るの?」

「ああ。それから、制服のリボンだが、色は紺色にしておいた。地味だが、いい色だ。見ていて飽きない」

「あ、そっか。所属部署が変わるから……」

「そうだ。紺色は優菜しか着けない。……まるで、俺の専門の秘書のようだな」

「……令、ありがとう」

「礼を言われるほどのことはしていない。それより、そろそろ着替えないと、始業時間に間に合わないぞ」

「あ、そっか。えっと、更衣室、お借りします」

「ああ」

 そして優菜は簡易的に設置された更衣室を借りて制服に着替える。

 リボンを最後に着けると、今までと違うそのリボンに、令の庇護があるような気がしてすぐに気に入った。

 そして更衣室から出ると、令が優菜を見て「リボン、よく似合っている」と言って、優菜のためのデスクにあるパソコンを開き、優菜にいろいろと教えていた。

 仕事の内容が以前と違い、これからは令の仕事の補佐をするということで、仕事を最初から覚え直さなければいけない。

 しかし、それを優菜は難しいかもしれないが頑張ろうと思えるくらい、やる気があるのだった。


 仕事を令に教わりながら、優菜は必死に覚えていく。

 一回教えられたところを何度も聞くのもよくないと、優菜は当然のようにメモを取り、わからないところはわからないと聞いて覚えていく。

 令はこの時、少し変だなと思った。

 優菜は確かに物覚えは悪くない。それはこの前からわかっていたことだった。だが、こんな積極的な姿勢で、何故あんなにも低評価だったんだろうかと。

 実のところ、今回の異動は人事とかなり揉めに揉めた。

 婚約者だから私情を持ち出しているのではなどと言われながらも、令は優菜にそれだけの能力があると言い切ったために踏み切れた異動だった。

 その揉めた理由というのが、上司達による優菜の評価によるところが大きかったのだった。

 だが、実際はどうだろう。優菜は仕事を覚えようと必死だ。それも、わからないところをわからないままにせず、次に同じことがないようにしているではないか。

 それに、こんなにも仕事に打ち込んでいるというのに……。

 今までの上司の目は節穴だったのだろうかと令は正直思った。

 もしかしたら、姫乃の息のかかった上司があまりにも多かったのではないだろうかとさえも思えて仕方がなかったし、実際のところそうだったのだ。

 優菜は仕事が一つ出来ると、「何度も確認をして申し訳ないんですが……」と言いながらも確認をして、本当に合っているかを確認するほどの念の入りようだ。

 これが評価されなかった方が、余程ありえないと令は思う。

「優菜、仕事は以前はどうやって覚えた?」

「え……。見て覚えてって、言われて、見て、覚えてました。質問は、受け付けてくれなくて。でも、質問しないで間違えると聞いてほしかったって怒られて……」

「……そうか。教育係は何を教えてくれた?」

「……教育係? あ、あの先輩かな……。えっと、特には、何も」

 もしかしたら、優菜だけがマニュアルにない教え方をされたのではないかと思った令だったが、まさかの大当たりだった。

 この会社にはきちんと新人教育のマニュアル、そして新人の教育係が用意されている。

 しかしながら、優菜にだけ、それが使われていなかったであろうことが、これではっきりしたのだった。

 令はこれが常態化すると企業にとってもダメージの大きなことだと思い、早急にどうにかしなければと思うのだが、それよりもまず、どうしてそうなったのかというところを知りたいと思った。丁度休み時間に入るところだからと、優菜に何故そうなってしまったのかを聞く。

「優菜、どうして教育係はお前に仕事を教えてくれなかったのか、わかるか? ああ、言っておくが、責めているんじゃない。ただ、単純に聞きたいだけなんだ」

「えっと……、それは多分、先輩が男性で、私が女だったから、というのが大きかったかもしれない……かな」

「女だから?」

「うん。あの、ね。令はそういう価値観持ち合わせないかもしれないけれど、世の中には女は男よりも劣っているって、本気で思っている人がいて、先輩はそのタイプの人……だった。他の女の子はなんとか教えてもらおうと必死に愛想よくしていたし、男の人はどんどん仕事を教えられていたよ……。私は、ほら。知っての通り、愛想なんてないから。嫌われちゃって」

「どうしてその時点で上に報告しなかった」

「言えるわけがないじゃない。姫乃さんの方が、力があるし、それに、末端の声なんて、皆耳を傾けてくれないんだから……」

「……そうか。わかった。話してくれて、ありがとう」

 そこで、小休憩の終わりの時間となった。

 優菜は覚えた仕事を確認しながら進めていき、令も自分の仕事を片づけていく。

 だが、令には衝撃的だった。世の中にはそういう輩がいると聞いたことがあるが、まさか本当にそんな人物達がいるとは思いもよらなかったのだ。それも自分の勤め先で……。

 今時、男だ女だというのは、あまりに時代錯誤だ。それは体力的な面などはまた別とし、何かが劣っているということではないと令は考えている。それに劣っているのではなく、補助が必要なのであれば、互いに補い合えばいいだけのこと。それが出来ないなどというのは、言い訳にしか過ぎないと令は思っているのだった。

 これは、早いところどうにかしたい。そう、令は思うのだが、なかなか上手くいかないのが現状なのだった。


 そして終業時間になると、優菜は一足先に帰ることになった。

 令はその後の会議があるため、優菜と一緒に帰れないためだ。

「それじゃ、令、お疲れ様。また明日もよろしくお願いします」

「ああ、明日も頼む」

「うん。またね」

 そして優菜は令の部屋から出るのだが、しばらく行った廊下で待っていたのはあの先輩の男性社員だった。

「優菜。お疲れ様」

 優菜はそれまでの気分のよさが嘘のように沈んだ。

「……先輩。なんですか」

「なんですかって、酷いな。一緒に食事でもと思ったんだけれど」

「結構です。私、今日は一人で食べたいので」

「え、手料理? 一人じゃ寂しいでしょ。一緒に食べてあげるよー。家まで連れて行って」

「……っ、図々しいですっ! 女性の家に、入ろうなんて……っ」

「いいじゃん。それとも何? 婚約者さまが許してくれないとか? だったら、君が黙っていればそれで済む話だよぉ」

 男性社員は優菜の手を掴んだ。

「は、放してっ!」

「このままキスでもしちゃう……? なんて、ね。それにしてもショックだなー。俺はこんなに優菜のこと好きなのに。優菜は俺のこと、嫌いなんだね……」

 優菜は手を放され、その男性社員から距離を取った。

「……好き、なんて、そんな言葉、信じられません。簡単に、そんな言葉を使う人なんて、特に信じられません。もう、近づかないでください!」

 そう言って、優菜は会社を出て行った。

 男性社員は「あーあ、不味いことになったなぁ。これじゃ姫乃先輩にどう報告したらいいかわからないや」と、誰もいない廊下で呟くのだった。


 優菜は家に帰ってから、あの男性社員は何だったんだろうと思いながら、スマホを開いた。するとそこには陽からメッセージが入っていた。

「男と会った。また金を要求されたから、払っておいたよ。でも、気にしないでね。出来ることなら、今度、また抱きしめさせてほしいんだけれど。嫌なら、いいけどさ」

 優菜は、はあ……とため息を吐いた。こちらの問題も、解決しなければならない。

 いつまでもお金を払わせてばかりでは、申し訳がない。でも、あんな大金、ぽんと出せるものではない。陽にしか、こんなこと話せないし、令になんてとても……。

 優菜は罪悪感から「うん。また今度、会おう」と会う約束をしたのだった。

 その頃、陽の方はというと、薄暗い路地で、スマホを見つめていた。

 そこには当然、優菜とのメッセージアプリでのやり取りがある。

「優菜には申し訳ないけれど、罪悪感を植え付けることでしか、今は優菜と深く繋がっていられない……。でも、いつかは令なんかじゃなく、俺の方を振り向いてくれる、よな」

 そう言って、スマホの画面にある優菜のアイコンを愛し気に見つめるのだった。

「で、その子に今度は何すればいいわけ?」

 陽のすぐ隣にはあの糸目の男が立っていた。

「そうだな……。軽くでいいから、怖がらせてやってくれ。でも、なるべく傷なんてつけないように。優しく、丁重に扱うこと。婚約者には言えないような、そんな怖さがいい。でも、そういう関係に持っていくのはなしだからな」

「……難しい注文をする雇い主様だ。でもいいよ。そのオーダー。受け付けてあげるよ。何せ、あんな大金をぽんとくれたんだからね。ああ、そうだ。丁度良かった。前の雇い主からも同じ注文があったんだけど、そっちは手酷くって注文だったんだよね。それを程度を下げてやってあげるよ」

「もし、もしも、優菜を酷く傷つけるようなことがあれば」

「わかってるって。ただ、酷く傷つけるのもいいと思うけどなぁ。そうすれば、心に隙が出来るから、入り込みやすくなる」

「……それは、俺は望んでいない」

「ふうん。変なの。欲しいものは、全力で欲しがればいいのに。じゃ、俺は行くよー」

 糸目の男はその場から立ち去る。

 陽も、帰路へと就き、俯きながら歩くのだった。


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