土曜日、優菜が目を覚ますと、世界が青く感じられた。
まるで水の底に沈んでしまった世界に取り残されたような、そんな気持ちになる。
「……」
気分を変えようと布団から起き上がり、パジャマから普段着のワンピースに着替える。
しかし、気分は全く変わらない。
髪を梳かし、最低限の身なりを整えるが、それでもやはり気分は変わらない。
その瞳には何も映さず、ただ、そこにあるものだけを見ている。
そこへふと思い浮かぶ、姫乃の笑顔。
「……っ!」
優菜は頭を抱えてその場に蹲った。
目を閉じ、耳を塞ぎ、もう何も受け入れられない状態だ。
すぐ後ろに姫乃が迫っているかのような、そんな気さえしてしまう。
それから少しして、優菜はゆっくりと目を開き、ここが自分の家で、自分の部屋であることを見て確かめる。
少しばかりほっとしたものの、優菜はその場で座り込んだままだった。
もう動く気になれない。動こうなどと、思えない。
心が、死んでしまったのではないかというくらい、感情の起伏がないことを優菜自身が一番よくわかっていた。
そういえば、今日令が来てくれると言っていたと思い出し、玄関の鍵を開ける。
そしてそのまま外を見ようとドアに手を掛けて押そうとしたが……、押せなかった。
外に出ることが出来ない。
「……外、出られなくなっちゃった」
優菜はそう呟くと、ふらふらとリビングのソファーに倒れ込むようにして座った。
時間ばかりが過ぎていき、気づけば午前十時を回っていた。
それからしばらくして、インターフォンが鳴った。
応えなくちゃと思うも、声を出す元気もない。
すると、やはり令が入って来て、優菜を見つけると「おはよう。不用心だな。もう少し警戒心を持ってほしいものだが……」と言った。
「あ、あのね、令」
優菜はあのことを伝えようとする。
「うん? どうした?」
優しく聞いてくる令に、優菜はぎこちない笑みで伝える。
「外……出られなく、なっちゃった……」
「外に……? ドアは普通に開くが……」
「多分、心の問題だと思う。なんだか、外に出られないの。出たく、ないの。ずっとじゃないけど、安心できるところじゃないと、姫乃さんの顔が頭に過って、辛いの」
「そうか……。でも、鍵は開けられたんだな?」
「うん。それは……令が来るって、わかってたから、出来たよ」
「偉いな」
令はそっと優菜の頭を撫でた。
まさか褒められると思っていなかった優菜は、きょとんとした表情を浮かべた。
そんな優菜に令は頬へと指を滑らせて撫で、「よく頑張った」と耳元で囁いた。
優菜はその途端、何故だか涙が出てきて令にしがみついて泣いてしまうのだった。
「どうして、出られないかはわかっているが、その出られない怖さを話してくれないか?」
令は優菜が落ち着いた頃にそう言うと、優菜はゆっくりと頷いた。
それから時間を掛けて、優菜は令に姫乃や会社でされてきたことの怖さをゆっくりと話した。それらは優菜が今まで隠してきただけあって、令が知らないことばかりで令は驚かされる。同時に、それだけのことを優菜一人が背負っていたことを知り、令は申し訳ない気持ちでいっぱいになるのだった。
「……以上、です」
「そうか。……なあ、優菜」
「うん?」
「その気持ちを、思い切って表現、してみないか」
「え? でも、どうやって? それに、表現したら何か変わるの……?」
「気持ちは吐き出した方がいいと、俺は思う。やり方は、そうだな。例えば、紙に絵を描いてみたらどうだろうか。クレヨンとかはないかもしれないが、マジックとかボールペンならあるだろう? それで紙いっぱいに不安や怖さを表現して、最後に捨ててしまおう」
「……捨てる」
「ああ。少しは気が晴れると思わないか?」
「そうかもしれない。ちょっとだけ、やってみる……」
優菜は令に言われるがまま、紙とボールペンを用意して、絵を描き始めた。
真っ黒な人影が、笑顔を浮かべている。そんな絵を描いて、その人影の周りにさらに人影をいっぱい描いた。
そして、その人影の下に、ピンク色の人影が倒れている。
「この真ん中の人影は……姫乃か?」
令が出来上がった絵を指さしてそう言うと、優菜は頷く。
「……うん」
「じゃあ、このピンクの人影は?」
「……私」
「……俺がいないな。そうだった。いつも、俺は肝心な時にお前の前にいない。だから、お前がいつも一人で背負い込むことになってしまう」
「今の私の気持ちだから、気にしないで?」
「そうか。だが、いつかお前を助けられる時が来るようにする。約束するよ」
「……ありがとう」
そう言いながら、令は紙を優菜の手に乗せた。
姫乃は令の方をじっと見ると、令は頷く。
どうやらぐしゃぐしゃにしてしまえということだろうかと優菜が思うと、優菜はその紙をぐしゃぐしゃに丸めて、ごみ箱に捨てた。
少しだけ、気持ちが楽になったような、そんな気がした。
「カウンセリングの真似事は出来ないが、このくらいなら、誰でも出来るからな。ムシャクシャしたら、文字でも何でもいい。書いて、それを破り捨てるなり、丸めて捨てるなりすればいい」
「……うん。ありがとう。ちょっと、落ち着いたよ」
「さあ、そろそろ昼にしよう。食べられそうか? 簡単なものなら、作れるが」
「うん……。少し、お腹空いちゃったかも」
「そうか。それはよかった。フレンチトーストにしようと思っているんだが、食べられるか? 大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
「わかった。じゃあ、昼はフレンチトーストにしよう。そこで待っていてくれ。テレビでもスマホでも、好きにしていていいから」
「うん」
そして優菜はスマホを見ながら、たまに令の料理する後ろ姿を見ていた。
気づけば、うとうととしてしまい、いつの間にか眠りに落ちてしまうのだった。
夢の中で、姫乃達にいじめられる夢を見た。
ひとりで耐え続け、ひたすら蹲る。
いつもなら、それで終わる。だけど、この夢では令が来てくれたのだった。
優菜は令に手を伸ばす。助けを求めるというよりも、ただ、来てくれたことが嬉しくて……。
そして目を覚ますと、驚いた表情を浮かべた令が目の前にいた。
「優菜……? 目を覚ましたのか」
自分の右手が何かを掴んでいる感触がして、その手の先を見てみると、令のシャツの裾を掴んでいた。
「あ……、ごめんなさい」
「いや、謝らなくていい。それよりも、先程よりも気分が良さそうだ。よかった。丁度、フレンチトーストも出来たところで、起こそうとしていたんだ。目を覚ましてくれてよかった」
「そうだったんだ。ありがとう。……バターのいい匂い」
「バターを多めに使ったからな」
「……太っちゃう」
「少しくらい太っても、可愛いままだ。気にしなくていい」
「そう……? ありがとう。令も、一緒に食べる、よね?」
「もちろん、そのつもりだが」
「……嬉しい。ありがとう」
優菜は久々に安らいだ優しい笑みを見せた。その笑顔を見た令も、思わず笑みを零すほどだった。
「美味しいか?」
「うん。美味しいよ。甘くて、とても美味しい……。本当に、令はお料理が上手だね」
「そう言ってくれると、作ってよかったと、俺も思えるよ」
「……ありがとう」
「今日はいっぱい優菜からのありがとうを貰っているな。あとで、少しお返しをあげなくちゃだな」
「お返し……?」
「まあ、そんなに期待はしないでくれ」
「う、うん……? うん……」
そして、デザートにヨーグルトと蜂蜜を食べて、二人は昼食を食べ終えた。
令は洗い物をし終えると、優菜の隣に座り、優菜の頭を撫で、優菜は目を閉じてそれを受け入れていた。
「そういえば令、さっき言ってたお返しって、何なの……?」
「ああ、少し、待っていてくれるか? 大丈夫、いなくはならないから」
「うん。それは、心配していないけれど」
「ちょっと、目を閉じていてくれ」
「え? な、なんで?」
「いいから」
「うん……」
優菜はソファーに身を預けたまま、目を閉じる。
しばらくすると、左手を令に取られ、薬指に何かを滑らせられた。
「目を開けてみてくれ」
優菜が目を開けて、左手の薬指を確認すると、そこには多少装飾があるものの、シンプルな指輪が光っていた。
「これって……」
「婚約者だと言うのに、ずっと指輪もないなんて、おかしな話だろう。この前、買っておいた。よければ、受け取ってほしい」
「……」
優菜はしばらく指の角度を変えて、指輪をじっと見つめていた。
「気に入らなかったか……?」
「ううん。違うの。なんだか、夢みたいだなって……」
そして同時に、優菜は思う。
ここで、これを受け取ってしまったら、ますます自分は令から離れられなくなる。そうしたら、死ぬことになる可能性が高くなってしまう。それでも、いいのかと。
(……死にたくはない。だけど、受け取りたい。この、気持ちを。どっちもなんて、私に出来るかわからないけれど、それでも)
「ありがとう、令。指輪、ありがたく受け取るね」
「……そうか。受け取ってくれるか」
令と優菜は微笑み合った。
「優菜、俺を信じて、どこかに出かけないか?」
「令を、信じて……? でも、外に出られるかわからないし、姫乃さんが見てるかも」
「もし、そうだったとしても、俺がいればあいつだって下手なこと出来ないだろう」
「そうだけど……」
「信じてくれ」
「……わかった」
微笑む令に、優菜は折れた。
出かける支度をして、ドアを開ける。令が先に外に出て優菜が一歩、足を踏み出すのを待つ。優菜は、少し震える足を、一歩だけ、踏み出した。
「出られた……」
「ああ、一歩出たら、あとは簡単だ。もう一歩、足を出してみてくれ」
優菜はさらにもう一歩、足を出すと、玄関から完全に外に出たのだった。
「……」
優菜はきょろきょろと辺りを見回したが、辺りに姫乃が居そうなところなどない。
「大丈夫、だよね」
「ああ、大丈夫だ。俺がいる」
「うん……。そう、だよね」
優菜はさらに前へと出て、ドアを閉めて、鍵を閉めたのだった。
「優菜、信じてくれてありがとう」
「令こそ、信じてくれて、ありがとう」
「え?」
「信じてくれなくちゃ、外に出ようなんて、言わないって思って……」
「確かに、その通りだ」
二人は手を繋ぎ、令の車まで行くと、それぞれ運転席、助手席へと座るのだった。