金曜日、優菜はこの前から制服を持ち歩くようにしているため、ロッカールームは使うにしろ、ロッカー自体は使うことがなくなった。荷物は令に話して令の部屋に置かせてもらっている。だが、ロッカーをつい開けてしまう。するとそこには、切り裂かれた優菜の写真が中に入っていたり、美容整形のチラシが入っていたりと、していることは幼稚なものでも、毎日やられると精神がすり減らされていくようなことばかりされていたのだった。
この会社に、私の居場所はもうないのかもしれないと、優菜はそう思った。だが、それを思ったのは今回が初めてではない。それだけに、今回は何度も思っていたことを深刻に思うほど、精神が脆くなっているのだろう。今までされていたことも思い出してしまう。
「なんで……。私、悪くないのに……。私、何か、したかな……。令と、婚約者っていうだけなのに。ただ、それだけなのに」
そう呟きながら、制服に着替え、時計を見る。
いつもよりも着替えに時間が掛かってしまい、あと数分で始業時間となる。
急いで令の部屋へと向かわなければ。そう思って、急いで令の部屋へと行くと、既に令は仕事を始めていた。
「……一分の遅刻だ」
「……ごめんなさい。すみません、でした。着替えに、手間取ってしまって」
「いつもしていることに、そんなに手間取るのか?」
どこか、いつもよりも言葉に棘があるように聞こえた優菜は、それだけで泣きそうになるが、泣いたところで何もならないと思い、必死に涙を隠して仕事をし始める。
だが、そんな状態で仕事など出来るわけもなく、寝不足からかこくりこくりと舟を漕いでしまう場面もあった。
そんな時、令は一言「眠いか」と言った。
優菜はその声で目を覚まし「……すみませんっ!」とだけ言って、必死に仕事をするのだが、心がそこにあるようでないことは、見るからにわかるのだった。
令は「少し休憩を入れてきたらどうだ」と言うが、優菜は頑なに首を縦に振らない。
そんな状態で、昼休みまで仕事をし続けた優菜。令は昼休みに入ると、とても心配そうに優菜の表情を見た。
(顔色がいつもよりも暗い……。目の下の隈も濃くなっている。化粧も、雑になっているな……。心は、読めないか。だが、大きな空洞があるかのような、そんな心をしている)と、優菜のことを自分なりに見て、感じていた。
「優菜、何があった。俺にも言えないのか?」
「う、ううん。何でもない。何でもないんだ。私、寝不足が祟ってね……」
この時、優菜は笑おうとした。しかし、笑うということが一瞬にしてわからなくなった。笑うことさえ、出来なくなってしまったと優菜自身が初めて気づいた時だった。
まるで、学生の時のようだとも、そう優菜は思った。
「……優菜」
「あ、うん。大丈夫。ちょっと、眠いだけ。お仕事、迷惑掛けちゃってごめんなさい。多分、月曜日からは、働けるから。だから、大丈夫だから。本当に、大丈夫……」
この時だった。令は優菜の心の声を聴いた。
(助けて……助けて……)
小さな声で、何度も助けを求めている優菜の心の声は、確かに令にまで届いた。
「やはり、休んだ方が」
そう言うと、優菜は立ち上がる。
「……私が、そんなに邪魔? 私、役に立たない? 何も出来ないから? 私、仕事するしか出来ないの。だから、仕事、させて。お願い……。お願いします……」
「優菜、休もう。今日が終わったら、すぐに。仕事中は俺だけしかいないから、だから、周りのことなんて気にしなくていい」
優菜のその哀れな姿を見た令は、堪らずそう言っていた。
優菜は座り込むと静かに泣き始めて、しばらくすると泣くのをやめた。
だが、令が余計に優菜のことが心配になったのは、その時だった。
——優菜から、一切の表情が消えたからだ。
もう、笑うことも、泣くことも、優菜には出来ないのかもしれないと思うと、ここまで追いつめた周りのことが令は許せなかった。同時に、ここまで気づけなかった自分の鈍感さを憎んだ。
優菜を抱きしめると、優菜は力なく抱きしめられたままで、何も言葉を発さずに、ただ抱きしめられている。
「優菜……。あと少しだ。あと少しで今日が終わるから」
「うん……。わかった」
そして、令が優菜のことを見守りながら、その日一日の仕事を終える。
優菜は「もう、帰る。仕事、終わったから。……令も、帰って。私、一人で大丈夫だから」と言った。
「待て。送るから」
「要らない。大丈夫。私、一人で大丈夫だから……。本当に、気にしないで」
「……そうは言っても」
「要らないって、言ってるの!」
優菜は珍しく声を荒らげた。
「お願い、ひとりで、帰らせて」
そう言って、令を残して優菜はロッカールームへと向かって行った。
途中、あの先輩男性社員がいて、優菜を引き留める。
「あ、優菜。待って、どうしたの。凄い泣きそうだね。あの婚約者さまに何かされた? 逆? 何もされなくて泣いちゃった?」
優菜は無表情のままその男性社員を見る。
「……うそうそ。でもどうしたの。そんなになって。あ、そうだ。俺のメッセージアプリのアカウント教えておくね。スマホ出して出して!」
「……」
優菜は何も言っていないのに、勝手に優菜のスマホを取り出してパスコードの解除をさせるとメッセージアプリの友達登録をさせた。
「これで俺達、友達だね。何でも気軽に話してねー。じゃ、また月曜日に」
そう言って、「先輩」はエレベーターに乗って上の階へと去って行った。
(上の階って、部長クラスとかじゃないと行けないはずだけれど……。まあ、いいや。今の私には関係がないもの)
優菜は思考力が鈍っているのか、すぐに姫乃と結びつけることが出来ずに、そのまま男を野放しにしてしまったのだった。
だが、そのことにも気づかないまま、優菜はロッカールームに行き、着替えてから帰宅した。帰宅途中、お店の窓に映った自分の姿が幽霊のように見えて、ため息しか出てこなかった。
そして家に帰ると、優菜は鍵を閉めることも忘れてリビングに行き、そして鞄を放り出して蹲って泣き始めた。
「なんでぇ……! 私、頑張ってるのに。どうして! なんで! 私ばかり……っ」
そう言って、泣き続けた。すると呼吸が徐々に苦しくなり始める。
脳裏に姫乃の姿が濃くなると、余計に呼吸がし辛くなる。
やがて、自分では呼吸が出来なくなり、苦しいまま手を伸ばす。
だが、そこに助けてくれる人はいない。
優菜は心の底から助けを呼んだ。誰かが来てくれるかもしれないという、もう持てるはずのない希望を持って。
そして、しばらくして意識がなくなりかけると……。
「優菜! どうした!」
ドアを開けたのは、やはり令だった。
「れ……い……っ」
優菜の状態を見た令は、すぐに「……過呼吸か」と呟いて近くに落ちていた紙袋を優菜の口元に持って行った。
しばらくすると、優菜は呼吸を普通に出来るようになっていき、令に抱えられて、ベッドに寝かされる。
「令、もう大丈夫……。ありがとう」
「大丈夫じゃないだろ。こんなになるまで、放っておくなんて。どうして俺に言わなかった。そんなに、信頼できない男か。俺は」
「もう、何も考えられなかった……。何も……。きっと、私、普通じゃ、なかったんだと思う」
「こんな時くらい、俺を頼ってくれ……」
「出来ないよ。出来るはずがない。少しでも弱みを見せたら、私は……死んでしまうんだから……」
「死ぬ……? どういうことだ?」
「……気にしないで。たとえばの、話だから」
「……」
優菜の心の闇を垣間見たような、そんな気が令はしたのだった。
「何か、俺に出来ることはないか? 何でもいい。掃除でも、何でもする」
「じゃあ……あたたかい料理が食べたいな。令の、料理を食べたいの」
「……わかった。すぐに作ろう」
「ありがとう」
優菜の願いを、令はすぐに叶えるべくキッチンに向かって行った。
冷蔵庫にある多くの食材を使い、料理を作り始める。
一方で優菜は、スマホを見てみるとあの先輩男性社員からメッセージが入っていたのだった。その内容は「なんだか元気がなさそうだったけど……」というありふれたものだった。優菜は、そんなものに今心が動くはずもなく、ただ「ありがとうございます」とだけ返事を打って送信し、スマホを枕元に置いて、ただ天井を仰ぎ見ていた。
そしてしばらくすると、いい匂いがしてきて、令が優菜を呼びに来る。
「優菜、料理が出来たぞ。食べられそうか……?」
「……うん。ありがとう。令」
そして優菜は片づけられたリビングで、並べられた数多くのごちそうを前に、思わず「こんなに食べられないよ」と言う。
しかし令は微笑んでこう言うのだった。
「少しだけでもいい。好きなものを食べてくれ。残ったら保存も出来るし、俺も食べる。一気に全てを食べなくてもいいんだ。日常だって、そうだろ? 一気にいろんなことをするからパンクしてしまう。どこかで、息抜きをしなければ」
「ありがとう……」
優菜はそう言うと、席に着いて「いただきます」と言って料理を食べ始めた。
食べてみると、どれも美味しいような気がした。しかし味覚がなんだかよくわからなくなってきていることに優菜自身は気づいていて、本当に美味しいかどうかはわからず、感想をどう伝えればいいのかわからずにいると、令は「今は、なんとなく食べられるだけでいいから」とだけ優しく囁くのだった。
その言葉を聞くと、優菜は何故だか泣けてきてしまって、泣きながら食事をした。
そして優菜の背中を優しく撫でる、令の姿があったのだった。
「優菜、明日も来るからそれまで、ゆっくり休め」
「……うん。ありがとう。令」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
そして優菜は今度こそ玄関の鍵を閉めて、お風呂に入ってから眠りに就いた。
だが、夢の中は悪夢の世界だった。
学生時代から姫乃にされてきたこと、取り巻き達にされてきたこと。周りからの視線など。そんなことばかりを思い出してしまって、嫌になる。
優菜の精神は、もう、壊れる寸前で、令によって少しだけ延命されたに過ぎなかった。