それから少ししてからだっただろうか。
例の男性社員に付き纏われている優菜は少々鬱陶しさを感じながらも、慣れてきていた。少しくらい、話しても……と、わずかながらも心を許してきてしまっていたのも確かな事実だ。
そんなある日の朝、いつものようにロッカールームに行くと、優菜が制服に着替えようとすると、制服が大きく切り裂かれているのがすぐにわかった。
(一体、誰がこんなこと……。今まで、こんなに大胆な嫌がらせなんて、そうなかったのに)
優菜はそう思うとどうしようもない焦りのような感情が襲ってきたのだった。
女性の縦社会において、その縦社会から外れてしまった者達は何らかのいじめが待っていることが多い。それは本人でさえも気づかないものもあったり、あからさまないじめも含まれていたりと、複雑なのだが、優菜の場合はあからさまないじめが多い。無視から始まり、噂話、物を隠されるなど……。
これまで受けてきたものは子どものいじめのようなものばかりだったが、今回のような人目について困るような大胆なものは今までなかったはずだった。
ましてや、姫乃以外からかもしれない大胆ないじめという点においては、そう数は多くなかった。なのに……。
ロッカーをよく見てみると、置いておいた化粧品も酷くぼろぼろにされていたり、ペンケースの中のペンも折られていたりと精神的にきつくなることばかりなのだった。
だが……。
(こんなことで、今更泣いたりなんか、しない……。だって、今は令も、陽もいてくれる……)
そう思いながら、切り裂かれた制服を持って私服で令の部屋に行くと、令が驚いた顔をしていた。
「どうした? ……その手に持っている制服は?」
「切り裂かれちゃった……」
「……そう、か」
優菜が無理して笑うと、令の方が傷ついた様子でそう言った。
「大丈夫。こういうのは、慣れっこなの。令も、知ってるでしょ?」
令は知っている。優菜がこれまで、どれだけこういうことに耐えてきていたのかを。学生時代から、こういうことが続いているのだから。
令は、それをずっと見ていた。姫乃の隣で、いつも。
(俺は、何をしていたんだ。あの頃、少しでも優菜の味方をしてやれば……。姫乃の本当の姿を、多少なりともわかっていれば)
昔に令は優菜に対して嫌悪感ばかりを持っていたため、そういういじめに遭うということを当たり前だと思っていた。
学校内で起こる姫乃を中心とした生活も、優菜を虐げるのが当たり前な日常も、それが普通だと思っていたし、自分もその輪の中にいた。
それを今の令は酷く後悔しているし、逆に今は何故それが当たり前だったのかと頭を悩ませる夜もある。それは、今、優菜の優しさに触れてしまったからだろうか。
令は、自身の行動がいつも正しいと思っているが、最近は過去の過ちを悔いているのだった。
例えば、今回と同じ制服を破かれた時が、学生時代の優菜にもあった。
姫乃の取り巻き達が優菜は生意気だからと大した理由もなく、体育に行っている優菜の制服を切り刻んでいるのを、令は見たことがある。
しかし、令はそれを止めなかった。何故なら自分に関係がないからだ。
自分に良いことも悪いこともなければ、動く必要などないとそう当時は考えていた。
そしてその制服を見つけた優菜は涙を零し、その場に泣き崩れていたのを、令はぼんやりと覚えていた。
今となっては、それが酷いことだったと理解出来る。
だが、まさか今のような社会人になってからもいじめは続くということに令は理解出来なかった。
「令、どうしたの?」
優菜に声を掛けられて令は思考を過去から現在に戻す。
「いや、昔を……思い出してな」
「昔を? よくわからないけれど……、そっか。」
「……学生時代を、思い出していたんだ」
「……ああ、そういえば、学生時代も制服切られたことあったね。私。そっか。それで思い出してたんだ」
「ああ」
「……令は、悪くないからね?」
「いや、傍観していただけでも、加害者の仲間だろう」
「手を出さないでいてくれた。それだけで、十分だよ」
令が見たのは、柔らかい微笑みを浮かべる、いつもの優菜だった。
優菜も、また昔のことを思い出しながらも、涙を流さずにいられたのは、令が今は自分の味方でいてくれるからだった。
だからこそ、傷ついた表情を浮かべる令に、笑ってほしいとまでは思わないが、いつものような表情を浮かべていてほしかった。自分にしか見せない優しい表情を。
「令、こっち見て」
令は優菜の方を向いた。どうしたのだろうという表情を浮かべながら。
そして優菜は令の頬に軽いキスを落とす。
「私は、昔のことよりも、今を大事にしたいの。だから、令のことも昔の令じゃなくて、今の令を大事にしたい……。昔の令だったら、きっと私のこと、こんな風に心配しなかったかもしれないけど、今はしてくれているでしょう。それで十分なの」
「……優菜」
そっと、令は唇を優菜と重ねた。
「あれ、優菜。制服じゃないんだね。どうしたの」
あの男性社員の先輩が休み時間に優菜に話しかけた。
「先輩……。いえ、別に。ちょっと、制服洗濯してて、会社に持って来るのを忘れちゃっただけなんです」
「とか言って、本当は隠されたり何かされたりしたんじゃないの? 君って、昔からそういうところあるよね。そんなバレバレの嘘を吐いてまで、隠しているのは、どうして?」
「……先輩は、信用できませんから」
優菜はきっぱりとそう言った。するとその男性社員は「もう、そんなことばかり……」と言って笑った。
「君を不安にさせる何かがあったことは確かだね」
「……」
優菜は無視を決め込み、そのまま令の部屋へと戻っていく。
男性社員は優菜の後姿を見ながら、にこにことしていた表情を無表情に変えると、そのまま自身の部署へと帰っていった。
優菜は、そのことを特に令には報告せずに、仕事を続ける。
令も、優菜に特別何かがあるわけではないということを心で感じ取ると、安心して仕事をするのだった。
そしてその日の夕方、令は用事があるからと先に家に帰ったため、優菜は少し遅れて自分の家に帰ることになった。
帰り支度をするために、ロッカールームへと向かうと、優菜のロッカーは、鍵をこじ開けられ、酷い有様となっていた。
辛うじて鞄だけが無事で、置いてあったものが全て壊されているような、そんな状態だ。
これには、さすがに優菜も心が辛く、苦しくなってしまった。
手紙も入っていて、それを開けて見てみようと手を入れると、指先に鋭い痛みを感じて手紙を落とす。
床に、剃刀の刃が落ちた。
手を見ると、指先に剃刀の刃が当たったのか、血によって赤い線が出来ていた。
手紙には「お前の居場所はない」とだけ書かれていた。
「子どもみたい……。でも、でも……。こんなのって、ないよ」
いざ、自分が再びいじめられるとなると、怖さや辛さが思い出されてしまい、その場に座り込んでしまう。
そして少しばかり泣いてから、涙をハンカチで拭い、ロッカールームを綺麗にする。
もう、なるべくロッカールームには自分の私物を置かないようにしなければならないと思いながら、折られた口紅や割られたファンデーションなどを鞄に全て入れて何も考えられない頭で家に帰るのだった。
「なんで……。私、そんなに姫乃にとって目障りな存在なの。それに、そんなに、皆にとっても私って邪魔なの。もしかして、令にとっても……。陽に、とっても……。皆、皆私のこと、嫌いなの……?」
一人、部屋に閉じこもって、優菜は泣いていた。でも、負けたくない。その気持ちが優菜を毎日会社へと向かわせるのだった。
だが、そんな無理な頑張りは、長く続くはずがなかった。
会社に残っている姫乃とあの男性社員が二人きりで話していた。
「姫乃先輩。俺、姫乃先輩に言われた通りに頑張りましたよ」
嬉しそうに笑うその男性社員に対し、姫乃はにっこりと微笑む。
「え? 何を言っているの?」
「え?」
「勝手にやったんだよね? 私、頼んでないもの」
「……そんな。で、でも、頑張ったのは」
「うん。それは、頑張ったね。偉いよ。でも、私の名前とかは絶対に出さないでね。出してもいいけど……わかるよね……?」
それは、脅しと似たようなものだった。
「名前を出してもいいけれど、出したらどうなるかわかるよね?」と、絶対的な強者として、姫乃は男性社員に話していた。
男性社員はそんな姫乃に「……美しいです。姫乃先輩」と、何故かうっとりとした表情を浮かべていたのだった。
「これからも、私のために頑張ってくれるかなぁ。彼女がいると、私、心が痛くて……」
「もちろんです。姫乃先輩のためなら、俺は何だってしますよ」
「本当に? じゃあ、楽しみにしているわね」
姫乃はそう言うと、鞄を持って、会社から出ていった。
そして男性社員は、次の手を考えながら、会社を出ていく。
翌日からも、優菜は会社を休まずにいた。そして、出来る限り、令の前では笑っていた。だが、裏でされているいじめは陰湿で、恐らく女性社員がしているであろういじめは酷くなるばかり。だが、周りは何も言わない。むしろ、加担していっているような、そんな気さえするのだった。
優菜はついに精神的に病んでいき、メンタルクリニックに通おうかどうしようかまで考えるのだった。しかし、そんなことをしては令に余計に心配を掛けてしまう。
だから、行きたくても、行けなかった。
眠くても、眠れない日が続き、目の下に薄っすらと隈が出来てしまう。
さすがに令も心配して、会社で「大丈夫か?」と聞いたが、当然優菜は心配させたくないから「大丈夫」とだけ答えていた。
そしてさらに追い打ちを掛けるかのように、優菜に対して姫乃は酷い仕打ちをするのだった。直接ではなく、間接的に。
だから優菜がもし、姫乃に「やめてほしい」と言ったところで、姫乃がしているわけではないから止めることなど出来ないのだ。
今日だけ、今日だけ働ければ休日になる。そう思いながら優菜は金曜日に出勤し、働くのだが……。
もう、優菜は限界だった。