会社に出勤した優菜は、ロッカールームで着替えていた。
するといつもより遅めに出勤してきた姫乃と丁度着替えを一緒にすることになったのだが、姫乃は優菜の服装や下着を見て「あれ? 私が選んであげたものは?」と聞いてきたのだった。
優菜は「あ、なんか……私らしくないなって思って、本当に申し訳ないんですが、ちょっと気分を変えようと思いまして」と答えた。
姫乃は「ふうん」と言いつつも、つまらないものを見るような目で優菜を見ている。
優菜はその視線に晒されるのが大の苦手だった。
今までの経験上、いいことなど一つもない目だからだ。
だが、この程度のこと、言っても言わなくても、未来には影響しないと信じて優菜は少しでも自分らしく生きようと心に決めた。
「小鳥遊部長には申し訳ないんですが、私、やっぱり自分が選んだものを着ていきたいなって思ったんです。だから、これからは好きなものを好きなように着ます」
「そう……。結構、似合ってたのにな。私好みのお洋服。令も、きっと好きだったと思うんだけれど」
「私らしい方が、きっと令も喜ぶと思います」
優菜が微笑みながらしっかりと姫乃の目を見てそう言うと、姫乃は笑顔で「じゃあ、ひとりで頑張ってね。応援してる」と告げた。
これが、何を意味するかは後々優菜自身が深く、強く、知ることになる……。
まず、優菜が令の部屋に行くまでの間、優菜を見た人達がこそこそと話をしていた。
優菜が少しばかり耳を澄ますと「姫乃先輩に手助けしてもらっておいて……」や「よくもああやって堂々と歩けること」といった話をしていたようだった。
途端に、優菜は不安になったが、まず自分が落ち着かなければならないと胸に手を置いて深呼吸をした。
今の優菜には、このくらいのことは何ということはないと、優菜自身思っている。そして、それは周りにも伝わったようで、その内陰口を叩く者は皆優菜のいないところでするようになった。
しかし、それを快く思わないのは姫乃だ。
姫乃はこの面白くない事態を、どうにかして自分が面白いと思えるものにしようと考えていた。何をしたらいいだろう。どうしたら、優菜を地獄の底に落として、令を再び自分のものに出来るだろうか。そう思いながら、綺麗なネイルの施された爪を噛む姫乃。
「姫乃先輩!」
「あら、どうしたの?」
姫乃に声を掛けたのは姫乃の後輩の男性社員。
その男性社員が姫乃を慕っている。もちろん、姫乃も好意を持たれていることはわかっていた。その時、ふと閃いた。
この男に少し動いてもらおうと。
姫乃の考える優菜の地獄へのカウントダウンとなるストーリーはこうだ。
優菜に近づいてもらい、話を聞いたり、逆に話したりして信頼を得る。それから相談事を受けるようになったら、それでもまだ仲の良い友達くらいの関係を演じてもらう。
そしてしばらくしてから、最高のタイミングと思える時に姫乃が合図をし、その男性社員に裏切ってもらう……というのが姫乃の思い描く思い付きの計画だった。
ありきたりだが、それが一番優菜には効くだろうというのが、姫乃の考えだったのだ。
「姫乃先輩? どうかしたんですか? なんだか、暗い顔をしている」
「あのね……。私、優菜ちゃんが、ちょっとだけ怖いの」
「優菜って、あの優菜ですか? 何かあるなら言いますよ。俺の後輩でもあるんですから、優菜は。それで、何があったんですか?」
涙をほろりと見せれば男はすぐに騙される。特に、この男は……。そう知っているのが、姫乃の怖いところだった。
姫乃の恐ろしいところは人に関するデータを頭の中にほとんど揃えているところだ。たとえ、一回会っただけの人だったとしても、そこから得られたデータは全て頭の中にある。昔から人に好かれるためにいろいろとしてきた姫乃らしい能力といえば、その通りなのだろう。
そのデータから、導き出したこの男が動きやすい言動は……。もちろん……。
「私、昔から優菜ちゃんに、ちょっと、いじめられやすいというか、少し意地悪をされやすいの。さっきもね、私が選んであげたお洋服、どうして着ないのかって聞いたら、あんなの着られるわけがないでしょって……。笑顔で言われちゃった」
「何ですか、それ。酷い……。姫乃先輩がせっかく選んであげたのに。でも、優菜ってそんなに性格悪いんですか? 確かに、要領は悪いし不器用ですけど……、とてもそんなことを言う子には」
「女には、女にしかわからない世界があるの。だから、優菜ちゃんには言わないでほしいし、多分、優菜ちゃんもあなたにはその顔を見せないと思うんだ……」
「じゃあ、俺が優菜に、姫乃先輩が味わっただけの苦痛を与えます。でも、俺だけじゃどうやったらいいのか……」
「だったら、私の言うこと聞いてくれる? そうしてくれると、凄く嬉しいな。私、味方が増えるの、凄く助かるの」
姫乃は手を差し出した。
「……もちろんです」
男は、姫乃の手を取った。
これで、この二人は協力関係となってしまった。
そうとも知らない優菜は、令の部屋で、令に教わりながら仕事をしていた。
ここだけは安全だと、そう思っているし、もちろんそうなのだが……。
「ここ、間違えている。以前にも間違えていたな」
「ご、ごめんなさい」
優菜は冷酷と呼ばれる令の顔を久々に見た気がした。
仕事に対してとにかく真っ直ぐなのだ。間違ったことは間違っていると言うし、たとえそれが目上の人間だろうと何だろうと、変わらず言うことだろう。
優菜は令が冷酷と呼ばれる理由がわかったような気がした。
そして、その冷酷さがいつか自分を捨てるかもしれないということも、ふと思わさせられて頭を抱える。
「……大丈夫か? 今のところは、前のデータを真似すればいい。メモを取れば、出来るようになる」
「……うん。はい。わかりました」
優菜からしたら令の下で働けるということは大抜擢で間違いない。そして、同時に姫乃に恨みを買うということだった。
自分の思い描く未来と、大分変わってきてしまっている。
そのことも、優菜を悩ませる要因の一つだった。
そしてそんなことを考えながら、心ここに在らずの状態でメモを取り、再び仕事に戻る。
こんなことではダメだ。ちゃんと仕事に集中しないと。
そう思うも、なんだか頭がぼんやりして動けない。
優菜は令に「ごめんなさい。ちょっと中抜けしてきます。頭がぼんやりするの」と言って部屋から出て行った。
令はその優菜の後姿を見ながら、何か言いたげにしていたが、仕事に戻るのだった。
優菜は令の部屋から出ると、屋上に行った。
自販機でジュースを買い、それを飲みながら、空をただ見上げていた。
そこへ、姫乃と話していたあの男性社員がやって来る。
「あれ、まだ昼休み、じゃないですよね」
あからさまに警戒する優菜に、その男性社員は困ったように笑いながら「君が屋上に行くのが見えたから」と言った。
「私に興味がある? 面白いことを言うんですね。今まで、話しかけてきたこともないじゃないですか。先輩」
「……覚えていて、くれたんだね」
「私、物覚えは悪い方じゃないんです……」
優菜も、姫乃と同じく、記憶力がいい。
何故なら、自分の生死に関わるからだ。
少しの人間関係の歪みから、いつ命を落とすかもわからない姫乃のための世界。
そんな世界で生き残るには、姫乃と同じくデータが必要だった。
ただ、姫乃ほどの記憶力はあっても、それを扱えるかというと、姫乃のような技量はない。愛想も、作れない。だから、使えないのだ。
そんなことも知らずに、男は優菜に話しかける。
「なんか、疲れてる? あの冷酷な君の婚約者さま、無茶言ってるんじゃないの? 俺でよければ、話を聞くよ」
「……令は、無茶なんて言ってこないから、大丈夫です。先輩こそ、何かあったから私に話しかけてるのではないですか」
完全にその男を疑っている優菜は、寂しそうに笑って言った。
「確かに、あったと言えばあったけれど、それは君がここに来たからだよ。君がここに来なければ、俺もここには来なかった」
「……謎々みたい。それで、何の御用ですか」
「特に意味はないけれど、話してみたいなって思って」
「私と……? でも、他の人に何か言われたり、辛い目に遭ったりするかもしれないから、おすすめしませんよ」
「大丈夫。俺そういうの気にしないから」
そう言われた優菜は、飲み物を飲んで、空になった入れ物をゴミ箱に捨てる。
「後悔、しますよ。それに、私はあなたには心を開きません」
「それでもいいから。ちょっとでいいから、俺と話してよ」
「……また、いつか」
優菜はそう言って、また令の部屋に戻って行った。
残された男は、「失敗したなぁ」と呟いて、煙草を一本吸ってから自分の部署に戻るのだった。
優菜が令の部屋に戻ると、丁度昼休みになった。
昼食は令と一緒に少しでも栄養のあるものをと思い、最近では優菜が作って令と一緒に食べている。優菜の作る料理は家庭的だと令からも評判がいい。
そんな料理を食べながら、優菜は先程の話をするのだった。
「令、さっきね、全然話したことのない先輩から話をしないかって言われたの」
「さっき? 中抜けの時か。どうして、わざわざそんな時に」
「わからない。ただ、私が抜けてきたのを見て一緒になって抜けたみたいなことを言ってたかな……」
「優菜、気をつけろ。お前はそういう男に好かれるのか、それとも嫌われているのかわからないが、とにかく、もうそいつには会うな。話しかけるな」
「うん。わかってる。わかってるんだけど、どうしても皆が居る前では、そうもいかないし、二人きりの時も不自然に避けられなくて……」
「俺を理由に断ればいいだろ」
「そうかな……。それでいいなら、そうする、けど」
「そうしてくれ」
でもなんだか心が晴れない優菜は、ご飯を食べ終わると、令の膝に頭を乗せて、少しの間だけうたた寝するのだった。
それを、令は優しい眼差しで見つめていた。
これから、何が起ころうとしているのか、二人にはまだわからないが、二人は、それぞれで明るい未来がやってくると、この時、確かに信じていたのだった。