「男性料金は高いよ。一千万円。これ、払える? ヒーロー君」
クスクスと笑う糸目の男。
到底払える額ではないだろう。そう思っての金額の提示で、優菜はその男のいやらしさを再度理解した。人の弱みに付け込むことで、自分に優位に持って行こうとするその根性が優菜は大嫌いだった。
そして男は絶対に払えないという自信から、余裕でスマホを見ながら二人に視線を送っている。
払えるものなら払ってみろと、まるでそう言っているかのようだ。
優菜はもう自分が綺麗でいられるのもこれまでだと思い、諦めつつあったが、陽がそんな優菜の背中に手を添えた。
まるで大丈夫だとでも言うかのように。
優菜はその意味がよくわかっていなかったが、次の陽の行動で全てを察した。
陽は持っていたボストンバッグを開いて、その中から札束を取り出して、数を数える。
「全部で百万円の札束が十……。これで一千万だ。確認しろ」
まだまだ札束が入っていると思わしきボストンバッグは、重そうだった。
陽は札束を持って男に手渡す。
男は驚きながら札束を確認した。
最初の札束はざっと偽札じゃないかを確認し、また、枚数も確認している様子だった。
その札束の数え方が、普通の人間とは違うような手慣れた様子だった。
陽はそんなのお構いなしにこう言う。
「もちろん、偽札なんかじゃない。俺が働いて稼いだ金だから……。これで優菜を解放してくれるんだろ」
それが約束だったよなと、男を睨みつける陽。
しかし男は笑顔で「わかってないね」とでも言いたそうに肩をすくめて見せた。
「……ふうん。払えるんだ。確かに、偽札でもないし、数を誤魔化してもないみたいだね。じゃ、次もヨロシクね」
ぽんっと陽の肩を軽く叩くその男に、陽は言い返す。
「次もってどういうことだよ! この一回で終わりのはずだろ!」
「えー、一回だけなんて言ってないよ。それに、金の切れ目が縁の切れ目なんて言うけど、そしたらこの子どうなっちゃうんだろうね? この子の金の切れ目は君にとっての縁の始まりかもしれないし」などと、少々訳のわからなことを話す男に、陽は困惑していた。
「頭悪いの? 簡単に言ってあげるよ。この子がお金ないから君はヒーローでいられるんだよ。お金が続く限り、ずっと、ね」
男は陽から優菜の側へと行き、優菜の顎や首、肩に触れながら言う。
「それとも、いいの? この子がどんな目に遭っても」
胸の辺りをやんわりと触る男に、優菜は思わず涙が溢れてきてしまう。
「や、やだ……。陽……!」
男の手は優菜の胸の上から徐々に下へと移動していく。
いやらしいその手つきに、陽も優菜がこのままでは危ないと思うのだった。
「わかった。わかったから……! それ以上優菜に触るな!」
男は満足そうに笑うと、優菜からようやく離れる。
そして「じゃあ、次も同じ金額で。あ、言っとくけど、その子の家とか、職場、わかってるから。また会おうねー」と言って、男は笑って去って行った。
残された優菜は焦り、戸惑い、困ってしまい動けなくなっていた。
一方で陽はこんなことになるだろうと思っていたため、大して動じはしなかった。
優菜はハッとし、慌てて陽にこう言う。
「陽、ごめん。ごめんね……。必死になって陽が働いたお金、私のために使わせちゃった……。次も、なんてあの男言ってたけど、気にしなくていいからね。私、なんとかするから……。あの、あと、このお金……。払ってもらったお金の一部にもならないくらい、少なくて申し訳ないけれど……」
そう言って優菜が二百万円にも満たない額を陽に渡そうとするが、陽は受け取ろうとしない。
「こんなの、要らないよ。優菜は自分の身のためにこのお金を大事に取っておきな。俺は知っての通り、稼いでるからさ、このくらい大したことないって」
大スターの陽からしたら……と言えるような額でないことは優菜も知っての通りだ。
そもそも、下積み時代などのことも考えると、こんな大金を使わせてしまったこととその金額に見合うだけの何かを渡せるかということに落差を感じて勝手に落ち込んでしまう。
優菜は首を横に振り、必死になって言う。
「嘘言わないで! 一千万円って、大金だよ? こんなの大したことない、なんて言えないよ……」
陽はそんな必死になってくれる優菜を見て、こんな姿が見られるなら金を使った甲斐もあったもんだと少しばかり的外れなことを考えつつも、ちゃんと受け答えをするのだった。
「そりゃ、そうだけど……。でも、優菜がどうにかされるより、ずっといいから」
あの男に優菜が何かされてしまうより、自分の財産が食われてどうにかなるものであるのならば、優菜のためにその全てを捧げてもいいと陽は思っている。
それほどまでに、盲目的に優菜のことを信仰しているとも言っていいほどに好意を寄せている陽は、このくらいのことなら問題はなかった。
しかし一般的な感覚を持ち合わせている優菜からしたら気が気ではない。
「それは、その、ありがとう……。だけど、私そんなにしてもらっても、返せるものがないんだよ? お返しは、何をしたらいいの……?」
やはり対価として何かしなければ気が済まない。
大金を払わせておいて、無料でいいですなどと言われても、はいそうですかと引き下がるわけにはいかないのだ。
自分に出来ることがあるのならば何でもしたい。それが優菜の気持ちだった。
まるで、陽が優菜に思っているのと同じように。
しかし陽はそんな優菜の気持ちをわかっていてあえてこう言うのだ。
「何もしなくていいよ。そのままの優菜でいいんだから」
「……」
「どうしたの?」
「私が、出来ることなら、出来る限りするから、教えてね」
「……わかった」
陽は少しばかり嬉しいと思った。少し予定とは違うが、自分の願いを優菜が叶えてくれるようになったと、歪んだ心が嬉しさを訴えかけていた。
(やばい。超嬉しい。優菜が俺のためだけになってくれるって。俺のために、何でもしてくれるって。でも、でも。こんな醜い心に気づかれるわけにはいかない。この関係を辞めたくはない。だったら、いつものように、していればいい。ただ、ちょっとだけなら、いいよな……)
その手は自然と優菜を抱きしめようとしていたが、自分からするのはまた違うのではないかと陽は思い、その手を止めた。
「陽? どうかしたの?」
「いや、なんでもない。ちょっと、カフェにでも行こうか」
そう言って、陽は優菜を連れて近くのカフェに行くのだった。
カフェに着くと、二人はコーヒーを頼み、小さく縮こまっている優菜に陽が明るく笑いかける。
「そんなに気にしないで。な」
「でも、これじゃ陽に申し訳がなくて……」
「じゃあ、この秘密を令に打ち明けないでくれ」
「え?」
「それだけでいいよ。今は」
「……わかった」
確かに、こんなこと、令には打ち明けられない。ましてやこんなことを打ち明けてしまったら、何故自分に相談しなかったのかと言われるに違いない。それに、とても心配してくるに違いないだろう。令も陽と負けないくらいお金を持っている。いや、陽よりも持っているのかもしれない。だから金で解決させようと思えば出来てしまう。だが、それは優菜が生き残るためには絶対に避けなければならない「お金で出来てしまう縁」なのだ。
優菜は陽の言う通り、秘密を令には打ち明けずにいるしかない。
「秘密は……守るよ。でも、そんなことでいいの? 他には、何かない?」
「じゃあ、例えば何ならしてくれるの?」
「それは……、わからない」
優菜にはパッと思い浮かぶお返しとなるお礼が出てこなかった。
「ダメだよ。そんな軽々しく自分を安売りしちゃ。そういうところが、ああいう男を引き寄せるんだから、な」
「……う、うん」
「そういや、あの男、誰かに雇われてるんだろうな……」
「え? なんで?」
「前に、気になったことを言ってたからな……。もしかして、あいつを雇って優菜に嫌がらせしてるのは……姫乃じゃないか?」
「まさか、さすがに姫乃さんでもそんなこと、しないよ……。多分」
確実にしないとは言えないところが苦しいところだった。
だが、自分の身の危険を冒してまでこんなことをする人ではないと優菜は勝手に姫乃を信じていた。
社会的信頼や地位を台無しにするようなことは、さすがにしない。そう信じ切っていたのだ。だが、陽はそれを真っ向から否定する。
「いや、多分、姫乃だよ。あいつのやり方は昔から見てきたから、なんとなくわかる。姫乃は優菜が見てきたことよりも余程酷いことをしてきたからな」
「何それ……。どんなこと?」
「ちょっと、俺からは言えない。ごめんな。ただ、あいつは危ないから、令から手を引け。今の内に」
「……私だって」
そうしたい。そう言いたかった。でも、言うに言えなかった。
それだけに、令のことを人間としても好きになってしまったからだ。
今更何もなかった頃と同じようになどと、出来るわけがなかった。
優菜はそのまま黙ってしまい、気まずい空気が流れた。
陽は仕方がないといった様子でコーヒーを飲んで、優菜の頭を撫でた。
「とりあえず、金のことについては気にするな。本当に。これは俺が好きでやっていることだから。優菜は気にしなくてもいい」
「……」
「そんなに気になるなら、あとで、抱きしめてくれれば、それでいいよ」
「抱きしめる……だけ?」
「当たり前だろ。だって、優菜は婚約者がいるんだからな。……と言っても、あの婚約者様は、優菜がこんな風に辛い目に遭っていることにさえも気づけていない鈍感野郎みたいだけど。……俺だったら、絶対気づくのに」
「……令のこと、悪く言わないで。あれで、結構いい人なんだよ? あと、抱きしめるくらいなら、……いいよ。それで、陽にちょっとでも恩返しが出来るなら」
「全く。優菜も優菜だよ。どうして、そんなに純粋なまま育っちゃったのか。このままだと、本当に悪い男に食われそうで不安で仕方がない。……あ、ごめん。そろそろ時間だから、行かなくちゃ」
「仕事?」
「うん。そう。行こうか。送ってくよ」
「……ありがとう」
そして二人はカフェを後にした。