優菜は姫乃による監視の目から逃げられるのは、令の部屋か、会社の外だけとなった。
会社にいると、どこからともなくやってきて、あれやこれやと言われるものだから精神が疲弊する。
それでも人間の慣れというのは恐ろしいもので、気付けばそれが当たり前の日常になりつつあった。ただ、優菜は自分の感情が、少しずつ死んでいくような気がしていた。
そんなある日のこと。姫乃が少しずつ動き出す。
姫乃は自宅からある人間に連絡を入れていた。
「この間はありがとう。でも、残念だったわ……。まさか、邪魔が入るなんて。でも、今回は大丈夫だと思うの。こちらもそのようにしていくから。依頼の内容は、この間の子を、またお願いしたいんだけども、出来ます? ……そう。それじゃあ、お願いします。報酬は弾みます。あの子を、めちゃくちゃにしてあげて。身体よりも、心を……。よろしくお願いします」
その電話は、もちろん令達に漏れることはない。
姫乃は電話を切ると、笑みを浮かべていた。でも、心では憤っている。
そしてこう思うのだ。
——やっぱり、優菜には無残な死に方がお似合いだ。
姫乃はテーブルに出してある、学生時代の写真を見た。
令と姫乃、そして隅の方に優菜が写っている。
「優菜ちゃん、頑張ってね」
そう言いながら、写真に鋏を入れて優菜だけを切り取ってゴミ箱に捨てた。
それから数日して、優菜は会社から帰宅しようといつもの道を通っていた。
路地裏のようなところは避けて通るも、人目のない裏道のような道は、どうしても家に帰るまでに通らなければならない。前に、糸目の男に襲われたことを思い出し、何事もないようにと祈るような気持ちでその道を通ろうとした、その時のことだった。
「おねーさん、どうも」
あの時の、糸目の男が優菜を待っていた。
「な、なんで、あなたが……」
恐怖から、ただ立っているだけだというのに震えてきてしまう。
「なんでって、君のことが好きになっちゃったから、とでも言えば納得してくれる?」
「……変なこと言わないで、ください」
「君ってさ、加虐心煽るのが上手なうさちゃんみたいだよね。かーわいい。ほら、おいで」
「嫌ぁっ!」
鞄を投げるが、男はあっさりと躱してしまう。
「ダメだよー、こんなことしちゃ」
そう言いながら、優菜の手首を掴み、身動きが取れないようにした。
「手、やめて! 退いて!」
「んー……、やめないよ」
男は優菜のスカートを上げると、嬉しそうに笑った。
「前よりセクシーな下着だね。もしかして、僕のために……ってことはないか。でも、そういう気はあるんだよね。こんなの着けてるってことは、さ」
優菜はその下着が自分で選んだ下着ではないだけに、悔しかった。まるで自分から望んでいるかのように言われることが、嫌だった。
「前の続き、しようか」
「……嫌、したくない。しない! 離して!」
「だから、泣いても何しても、こんなところ、人が来るはずがないでしょ? おねーさん、頭悪いの? あ、それとも煽るためにやってる? だとしたら天才的だね」
「違う、そんなんじゃ……っ」
「何が違うの。男をそそらせる格好して、下着まで。そんなので違いますって、無理があるのはそっちでしょ」
「……本当に、やめてっ」
「やめない。ほら、腰をなぞっただけで、こんなにビクビクして。おねーさん可愛いね。その様子だと、男に可愛がってもらったこと、ほとんどないんだね。じゃあ、僕がいろいろ躾けてあげるよ」
「触らないで……っ! お願い、だから……っ」
「おねーさんに教えてあげる。そういうことを言うとね、男は余計触りたくなっちゃうんだよ。だから、全くの無駄なんだよー」
優菜は逃げなきゃと思うも、男に捕まっている以上、逃げようがない。
助けを呼ぼうにもスマホを取ることさえも出来ないのだった。
「今日は、この前みたいに邪魔も入らないし、ゆっくり出来るね」
「やめて、やめて。お願いします……」
「んー……、僕も鬼じゃあないんだよね」
男は少しだけ考える素振りを見せるとすぐに笑みを見せる。
「じゃあ、金さえ払ってくれれば引いてあげるよ!」
「お金……? そんなに、持ってない、です」
「金の稼ぎ方なんていくらでもあるよー。特におねーさんくらいの年齢だとね」
「……」
「金額は、そうだなぁ。二百万円くらいで手を打ってあげようかなー」
「二百万円……? そんなに、ですか」
「うん。優しいでしょ。いつもならもっと吹っ掛けるんだけどなー。おねーさん可愛いからつい優しくなっちゃうよー。参ったなぁ」
どこが優しいものかと、優菜は思う。でも、二百万円さえ払えば、身体を汚されることはない。二百万円……、貯金があると言えば、ある。だがそれは、これから生きていくために貯めている大事なお金だった。
「今日は一旦帰るけど、考えておいてね。あ、もしダメだったらそしたら僕のものになるだけだから、金と、身体と心のどっちが大事か、考えた方がいいよ」
ひらひらと手を振って男はどこかへと去って行った。
優菜はふらふらと家へと帰り、スマホで銀行口座の残高を見る。
貯金はぎりぎり二百万以上はある。だが、あの男に渡したら、そのほとんどがなくなってしまう。
自分の身を守るために、何を優先するべきなのか。
お金を渡したら、その後に死が訪れるかもしれない。
お金を渡さなかったら、いい様に使われて捨てられる未来しかない気がする。
優菜は一人、悩み続けた。
令に相談しようとも思ったが、余計な心配は掛けたくないし、とてもではないが言えない……。
そこで、優菜の頭に一人、浮かんだ。
「陽になら……相談、出来る……」
唯一相談出来そうな相手は、陽だけだった。
すぐにスマホでメッセージを送った。「相談したいことがある」とだけ書いて。
そして既読が付くと、「今、通話出来る?」とメッセージが送られてきた。
優菜は「うん」とだけ送ると、すぐに着信があった。
通話ボタンを押すと、陽の心配そうな声が聞こえてくる。
「もしもし。優菜、大丈夫か? 今度は何があった……?」
「あのね、陽……。この前の、暴漢、覚えてる?」
「覚えてるよ。忘れられるわけないだろ。でも、そいつがどうした?」
「あの人と、今日会ったの……」
「はあ?」
「帰り道、把握されてて、私のこと、待ってたみたいで……」
「何だよ、それ」
「この前の、続き、しようって言われて、断ったらお金要求されたの。今日は、何もされてないよ。されてない、けど、明日また会うみたい……」
「危険だろ、それ。金を渡しても何もされないなんて保障、どこにもないだろ。それに、いくら要求されたんだよ」
「二百万円……」
「そんなに……。わかった。明日の帰り、俺が迎えに行く。一緒に帰ろう。その方が安全だから」
「で、でも、迷惑が掛かっちゃう」
「そんなの気にしなくていい! 優菜の方が、ずっとずっと、大切なんだ。俺が出来ること、全部させてよ。きっと優菜のことだから、令には……言えてないんだろ……?」
「……うん」
「わかった。俺が、優菜を助ける。相談してくれてありがとうな。明日、一緒に帰ろう」
「ありがとう」
「迎えに行くから、それまで会社の中で待ってて」
「うん」
「……じゃあ、また明日」
「うん。また、明日」
通話が切れると、優菜は膝を抱えて俯いた。
また、迷惑を掛けてしまうと……。
次の日、優菜は銀行に行って二百万円を下ろしてから出勤すると、姫乃が待っていてロッカールームで一緒に着替えることになった。
これだから、女というのは嫌だと優菜は思ったが、そうは言ってもどうしようもない。
「あれ? 優菜ちゃん、ちょっと痩せた?」
「……そんなこと、ないです」
「ふうん。そう。あ、でも下着……、ちゃんと私が選んだものを着けてくれてるんだね。よかった」
「……はい」
(下着まで見られるなんて、本当は凄く嫌。だけど、言う通りにしないと、何をされるかわからないから、大人しく従っておいた方が、いい)
「あ、そうだ。優菜ちゃん、今月、私お金ピンチなんだけど、ちょっと貸してくれないかなぁ?」
「え……っ」
「五万円くらいでいいんだけど、持ってる……? ほら、優菜ちゃんに下着やお洋服を買ってたら、お金なくなっちゃったの。だから、ちょっとだけでいいから、返してほしいなーなんて。もちろん、嫌だったら嫌で、いいんだけどね?」
(何で、よりにもよって今日なの……? どうして。このお金は、あの男に渡さなくちゃいけないのに。でも、姫乃にも渡さないと、嫌がらせをされるかもしれない。あることないこと、周りに吹き込むかもしれない。今日がダメって言ったら、きっと責められる。……渡すしか、ないか)
「……五万円、ですね」
優菜はバッグの中からお金の入った封筒を取り出すと、その中から五万円を出して姫乃に渡した。
「ありがとう! 助かるわ。でも、そんなにお金を持ってどうしたの?」
「……たまたま、持ってただけです。支払いの、関係で」
「そっかぁ。じゃあ、今日も頑張ろうね」
「……はい」
結局、優菜はその日一日、仕事に身が入らないばかりか、令との昼食の際も上の空で令に心配された。帰りに送って行こうかと言われたが、優菜はそれを断り、迎えに来てくれた陽と一緒に帰るのだった。
「ごめんね、陽……。面倒なことに、何度も付き合わせちゃって」
「いいんだよ。それより、優菜を傷つけられる方がずっと嫌だから」
「そう言ってくれて、ありがとう」
「一応、俺も少しだけ金を持ってきたから、足りないって言われたら俺の金も渡そう」
「だ、ダメだよ! そんなに、してもらっても、私返せるもの何も持ってないし……」
「じゃあ、また今度笑って遊べるようになったら、それでいいよ」
「そんな、それじゃ何も」
「いいから」
有無を言わせない陽の物言いに、優菜は頷くしかなかった。
「……うん。ありがとう」
それから優菜と陽はぽつりぽつりと話をしながら、道を歩いていた。
優菜の家が近くなると、あの糸目の男が優菜の帰りを待っていた。
優菜を見つけたその男は、笑いながら「こんばんは。今日はこの間の人と一緒なんだねー」などと言いながら優菜に近づくのだった。
陽は優菜を自分の背中に隠した。
「金なら持って来た。もう、優菜を狙うのはやめろ」
「うん。いいよ。でも、君が来るなんて聞いてないから、当然値上げさせてもらうよ。男性料金は決まって高いものさ。……払えるかな?」
優菜は不安でいっぱいになりながら、陽の服の裾をぎゅっと握った。