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第二十八話 電話

 優菜は姫乃による監視の目から逃げられるのは、令の部屋か、会社の外だけとなった。

 会社にいると、どこからともなくやってきて、あれやこれやと言われるものだから精神が疲弊する。

 それでも人間の慣れというのは恐ろしいもので、気付けばそれが当たり前の日常になりつつあった。ただ、優菜は自分の感情が、少しずつ死んでいくような気がしていた。

 そんなある日のこと。姫乃が少しずつ動き出す。

 姫乃は自宅からある人間に連絡を入れていた。

「この間はありがとう。でも、残念だったわ……。まさか、邪魔が入るなんて。でも、今回は大丈夫だと思うの。こちらもそのようにしていくから。依頼の内容は、この間の子を、またお願いしたいんだけども、出来ます? ……そう。それじゃあ、お願いします。報酬は弾みます。あの子を、めちゃくちゃにしてあげて。身体よりも、心を……。よろしくお願いします」

 その電話は、もちろん令達に漏れることはない。

 姫乃は電話を切ると、笑みを浮かべていた。でも、心では憤っている。

 そしてこう思うのだ。

——やっぱり、優菜には無残な死に方がお似合いだ。

 姫乃はテーブルに出してある、学生時代の写真を見た。

 令と姫乃、そして隅の方に優菜が写っている。

 「優菜ちゃん、頑張ってね」

 そう言いながら、写真に鋏を入れて優菜だけを切り取ってゴミ箱に捨てた。


 それから数日して、優菜は会社から帰宅しようといつもの道を通っていた。

 路地裏のようなところは避けて通るも、人目のない裏道のような道は、どうしても家に帰るまでに通らなければならない。前に、糸目の男に襲われたことを思い出し、何事もないようにと祈るような気持ちでその道を通ろうとした、その時のことだった。

「おねーさん、どうも」

 あの時の、糸目の男が優菜を待っていた。

「な、なんで、あなたが……」

 恐怖から、ただ立っているだけだというのに震えてきてしまう。

「なんでって、君のことが好きになっちゃったから、とでも言えば納得してくれる?」

「……変なこと言わないで、ください」

「君ってさ、加虐心煽るのが上手なうさちゃんみたいだよね。かーわいい。ほら、おいで」

「嫌ぁっ!」

 鞄を投げるが、男はあっさりと躱してしまう。

「ダメだよー、こんなことしちゃ」

 そう言いながら、優菜の手首を掴み、身動きが取れないようにした。

「手、やめて! 退いて!」

「んー……、やめないよ」

 男は優菜のスカートを上げると、嬉しそうに笑った。

「前よりセクシーな下着だね。もしかして、僕のために……ってことはないか。でも、そういう気はあるんだよね。こんなの着けてるってことは、さ」

 優菜はその下着が自分で選んだ下着ではないだけに、悔しかった。まるで自分から望んでいるかのように言われることが、嫌だった。

「前の続き、しようか」

「……嫌、したくない。しない! 離して!」

「だから、泣いても何しても、こんなところ、人が来るはずがないでしょ? おねーさん、頭悪いの? あ、それとも煽るためにやってる? だとしたら天才的だね」

「違う、そんなんじゃ……っ」

「何が違うの。男をそそらせる格好して、下着まで。そんなので違いますって、無理があるのはそっちでしょ」

「……本当に、やめてっ」

「やめない。ほら、腰をなぞっただけで、こんなにビクビクして。おねーさん可愛いね。その様子だと、男に可愛がってもらったこと、ほとんどないんだね。じゃあ、僕がいろいろ躾けてあげるよ」

「触らないで……っ! お願い、だから……っ」

「おねーさんに教えてあげる。そういうことを言うとね、男は余計触りたくなっちゃうんだよ。だから、全くの無駄なんだよー」

 優菜は逃げなきゃと思うも、男に捕まっている以上、逃げようがない。

 助けを呼ぼうにもスマホを取ることさえも出来ないのだった。

「今日は、この前みたいに邪魔も入らないし、ゆっくり出来るね」

「やめて、やめて。お願いします……」

「んー……、僕も鬼じゃあないんだよね」

 男は少しだけ考える素振りを見せるとすぐに笑みを見せる。

「じゃあ、金さえ払ってくれれば引いてあげるよ!」

「お金……? そんなに、持ってない、です」

「金の稼ぎ方なんていくらでもあるよー。特におねーさんくらいの年齢だとね」

「……」

「金額は、そうだなぁ。二百万円くらいで手を打ってあげようかなー」

「二百万円……? そんなに、ですか」

「うん。優しいでしょ。いつもならもっと吹っ掛けるんだけどなー。おねーさん可愛いからつい優しくなっちゃうよー。参ったなぁ」

 どこが優しいものかと、優菜は思う。でも、二百万円さえ払えば、身体を汚されることはない。二百万円……、貯金があると言えば、ある。だがそれは、これから生きていくために貯めている大事なお金だった。

「今日は一旦帰るけど、考えておいてね。あ、もしダメだったらそしたら僕のものになるだけだから、金と、身体と心のどっちが大事か、考えた方がいいよ」

 ひらひらと手を振って男はどこかへと去って行った。

 優菜はふらふらと家へと帰り、スマホで銀行口座の残高を見る。

 貯金はぎりぎり二百万以上はある。だが、あの男に渡したら、そのほとんどがなくなってしまう。

 自分の身を守るために、何を優先するべきなのか。

 お金を渡したら、その後に死が訪れるかもしれない。

 お金を渡さなかったら、いい様に使われて捨てられる未来しかない気がする。

 優菜は一人、悩み続けた。

 令に相談しようとも思ったが、余計な心配は掛けたくないし、とてもではないが言えない……。

 そこで、優菜の頭に一人、浮かんだ。

「陽になら……相談、出来る……」

 唯一相談出来そうな相手は、陽だけだった。

 すぐにスマホでメッセージを送った。「相談したいことがある」とだけ書いて。

 そして既読が付くと、「今、通話出来る?」とメッセージが送られてきた。

 優菜は「うん」とだけ送ると、すぐに着信があった。

 通話ボタンを押すと、陽の心配そうな声が聞こえてくる。

「もしもし。優菜、大丈夫か? 今度は何があった……?」

「あのね、陽……。この前の、暴漢、覚えてる?」

「覚えてるよ。忘れられるわけないだろ。でも、そいつがどうした?」

「あの人と、今日会ったの……」

「はあ?」

「帰り道、把握されてて、私のこと、待ってたみたいで……」

「何だよ、それ」

「この前の、続き、しようって言われて、断ったらお金要求されたの。今日は、何もされてないよ。されてない、けど、明日また会うみたい……」

「危険だろ、それ。金を渡しても何もされないなんて保障、どこにもないだろ。それに、いくら要求されたんだよ」

「二百万円……」

「そんなに……。わかった。明日の帰り、俺が迎えに行く。一緒に帰ろう。その方が安全だから」

「で、でも、迷惑が掛かっちゃう」

「そんなの気にしなくていい! 優菜の方が、ずっとずっと、大切なんだ。俺が出来ること、全部させてよ。きっと優菜のことだから、令には……言えてないんだろ……?」

「……うん」

「わかった。俺が、優菜を助ける。相談してくれてありがとうな。明日、一緒に帰ろう」

「ありがとう」

「迎えに行くから、それまで会社の中で待ってて」

「うん」

「……じゃあ、また明日」

「うん。また、明日」

 通話が切れると、優菜は膝を抱えて俯いた。

 また、迷惑を掛けてしまうと……。


 次の日、優菜は銀行に行って二百万円を下ろしてから出勤すると、姫乃が待っていてロッカールームで一緒に着替えることになった。

 これだから、女というのは嫌だと優菜は思ったが、そうは言ってもどうしようもない。

「あれ? 優菜ちゃん、ちょっと痩せた?」

「……そんなこと、ないです」

「ふうん。そう。あ、でも下着……、ちゃんと私が選んだものを着けてくれてるんだね。よかった」

「……はい」

(下着まで見られるなんて、本当は凄く嫌。だけど、言う通りにしないと、何をされるかわからないから、大人しく従っておいた方が、いい)

「あ、そうだ。優菜ちゃん、今月、私お金ピンチなんだけど、ちょっと貸してくれないかなぁ?」

「え……っ」

「五万円くらいでいいんだけど、持ってる……? ほら、優菜ちゃんに下着やお洋服を買ってたら、お金なくなっちゃったの。だから、ちょっとだけでいいから、返してほしいなーなんて。もちろん、嫌だったら嫌で、いいんだけどね?」

(何で、よりにもよって今日なの……? どうして。このお金は、あの男に渡さなくちゃいけないのに。でも、姫乃にも渡さないと、嫌がらせをされるかもしれない。あることないこと、周りに吹き込むかもしれない。今日がダメって言ったら、きっと責められる。……渡すしか、ないか)

「……五万円、ですね」

 優菜はバッグの中からお金の入った封筒を取り出すと、その中から五万円を出して姫乃に渡した。

「ありがとう! 助かるわ。でも、そんなにお金を持ってどうしたの?」

「……たまたま、持ってただけです。支払いの、関係で」

「そっかぁ。じゃあ、今日も頑張ろうね」

「……はい」

 結局、優菜はその日一日、仕事に身が入らないばかりか、令との昼食の際も上の空で令に心配された。帰りに送って行こうかと言われたが、優菜はそれを断り、迎えに来てくれた陽と一緒に帰るのだった。

「ごめんね、陽……。面倒なことに、何度も付き合わせちゃって」

「いいんだよ。それより、優菜を傷つけられる方がずっと嫌だから」

「そう言ってくれて、ありがとう」

「一応、俺も少しだけ金を持ってきたから、足りないって言われたら俺の金も渡そう」

「だ、ダメだよ! そんなに、してもらっても、私返せるもの何も持ってないし……」

「じゃあ、また今度笑って遊べるようになったら、それでいいよ」

「そんな、それじゃ何も」

「いいから」

 有無を言わせない陽の物言いに、優菜は頷くしかなかった。

「……うん。ありがとう」

 それから優菜と陽はぽつりぽつりと話をしながら、道を歩いていた。

 優菜の家が近くなると、あの糸目の男が優菜の帰りを待っていた。

 優菜を見つけたその男は、笑いながら「こんばんは。今日はこの間の人と一緒なんだねー」などと言いながら優菜に近づくのだった。

 陽は優菜を自分の背中に隠した。

「金なら持って来た。もう、優菜を狙うのはやめろ」

「うん。いいよ。でも、君が来るなんて聞いてないから、当然値上げさせてもらうよ。男性料金は決まって高いものさ。……払えるかな?」

 優菜は不安でいっぱいになりながら、陽の服の裾をぎゅっと握った。

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