「令、一旦は、写真の件は解決したと思うの……」
「……あの様子で?」
とても信じられないといった表情を浮かべる令。
「うん。一応、お兄ちゃんは、言ったことを守ってくれる人なの……。だから、妹に写真を撮ったり、迷惑なことをするなって言ってたってことは伝わると思うんだ」
「でも、それで嫌がらせが増えたら」
「大丈夫。妹は利口なの。自分が不利益を被るかもしれないってわかった時点で、性格からしてももう私には写真っていう手は使ってこないと思うよ。他の手も、あるかもしれないけれど相当慎重にならなくちゃいけなくなるから面倒なことが嫌いな妹はやらないはず。だから、大丈夫」
「……はあ」
令はため息を吐いた。
(——怒られる!)
そう思って目をぎゅっと瞑った優菜。
令はそんな優菜の頭に手を置き、何度か撫でた。
「え……っ」
思わず目を見開いた優菜が目にしたのは、困ったように微笑む令だった。
「お前は頑張った。疲れただろう。少し休んでいけ」
「……うん。ありがとう」
そして二人はソファーに座ると、今日のドライブの感想を言ったり、これからどんなところに行こうかと未来の話に花咲かせるのだった。
きっと、先程、令が頭を撫でてくれたのは労いの形だろう……。そう優菜は思った。
実際、令なりの最大の労いの形であることは、令が自分で認めている。
ただ、優菜には照れてしまって言い出せなかった。
そんな令の気持ちがわかっている優菜は、大人しく頭を預けた。
「あ、そういえば、令」
「どうした」
「背中の火傷、大分良くなったの。だから、もう薬を塗ってもらわなくても大丈夫だと思うんだ。今まで、ありがとうね」
「そうか。よかった。痕にはなってないか?」
「うん。なんとか……。気を遣ってくれてありがとうね」
「こんなの、気を遣った内に入らない。お前には、まだまだ、謝罪も、ありがとうも足りないんだからな……」
「令……」
優菜は嬉しかった。だが、同時にとても恐ろしくなった。
冷酷な婚約者のはずの令が、姫乃ではなく優菜の自分にとても優しく接してくる。
それは小説の世界が、完全に変わってしまったことを意味していた。
これでは、自分がこれまで参考にしていた小説の知識や未来が、助けとして全く使えなくなってしまう。自分の命をどうしたら守れるのだろうか。
それを、令に打ち明けられるはずもなく、優菜はひとりで悩むことに決めてしまった。
ここで、言ってしまえば、いくらか心が楽になって、令からも助言などを貰えたかもしれない。しかし、それ以上にこれ以上の「改変」が怖くて仕方がなかったのだ。
思えば、火傷の件も、写真、画像の件も、兄の件も全て小説には出てこないイレギュラーな出来事だった。
そのことに気づくのが今なんて、遅すぎると優菜は自分の呑気さにため息が出てしまう。
「優菜、どうかしたのか」
「ううん。なんでもない」
ここで、怪しまれることをしてはいけない。もし、自分が別世界の人間で、この世界の本来の優菜ではないと知られてしまったら、どうなるのかわからない。
そう優菜が思っていることを、令は少しだけ端的ではあるが読み取っていた。
(また隠し事か……。しかも、今度は重要そうだ。複雑な感情が渦巻いている。どうにかして、聞き出せないだろうか。そうすれば、助けになれるかもしれない)
「なあ、優菜」
「どうしたの?」
「何か、隠し事、してないか」
令はストレートに聞くことにした。ここで曖昧に聞いても、優菜のことだ。誤魔化されると思ったからだった。
優菜はあからさまに視線を逸らし、口ごもる。
やはり隠している。そう確信させるには十分すぎるものだった。
「優菜、そんなに俺が信用出来ないのか」
「……」
「どうなんだ」
「したいよ。信用、したい。だけど、言ったらダメなの……」
「どうして」
「……それは、言えない。ごめんね、令」
「そう……か」
「うん。ごめんね」
令は優菜がそこまでして隠したがっているなら、今無理矢理聞き出すのはよくないと思った。
これまで築き上げてきたものが、一気に失われる、そんな気がしたからだ。
一方で優菜もほっとしていた。今までの令であれば無理矢理聞いてくるはずだろうが、今の令はそんなことをしてこない。だから、この世界が小説の世界であることを隠せたし、自身のことについても触れられなかった。
だが、何故だろう、
そのことに少しばかり、寂しさを感じていたのだった。
(なんで……。こんな気持ちになるんだろう。どうして、寂しいの。私は令を本気で好きになっちゃいけないのに。生き残るためには、ダメなのに。こんなにも、好きになってしまったなんて……)
優菜の心は揺れ動く。
もしかしたらの可能性に賭けようか。令に命が危ないのだと打ち明けて、二人で幸せになれる道を探そうか。それとも、当初の計画通り、小説の主要人物達とは接触を避けて、一人で生きていけば……。
二人は、心の中でもやもやを抱えて、その日を終えるのだった。
次の日、出勤すると優菜の部署に姫乃が来ていた。
やはり人気があるだけあって、人だかりが出来ている。
優菜はパッと見てすぐに、憂鬱な一日の始まりだなと感じた。
「あ、優菜さん! おはよう!」
にっこりと優しい笑みを浮かべる姫乃に、優菜もぎこちない笑みを浮かべて「おはようございます」と返した。
「優菜さん、今まで構えなくてごめんね。令のお嫁さんになるために、私がしっかり仕事とか服装とか、教えてあげるから!」
優菜は姫乃のその言葉に、すぐに心を警戒させた。
おかしい。姫乃がそんなことを考えることは絶対にありえない。
(何を考えているのだろう。まさか、いじめでも考えているの……?)
「小鳥遊部長って優しいんですね! 普通、こんな地味な人に恋愛のお手本とか見せないですって!」
「そうですよー!」
好き勝手言う取り巻き達に、優菜は気が重くなっていく。
「そんなこと、言うものじゃないわ。大丈夫、私が優菜さんを大変身させて、令とお似合いな恋人にしてあげるの! 私の使命はそれだなって、昨日いろいろ考えながら思ったの……」
まるで聖母のような微笑みを浮かべる姫乃に、周りはうっとりとしているが、優菜だけはその恐ろしさを感じていた。
何かされるに決まっている……と。
それからの日々は、優菜にとって気味の悪い地獄のような日々だった。
世話焼きなお姉さんを装うが、どう考えてもおかしいのだ。
優菜を令の恋人として……などと言っているが、自分の方が相応しいと思っているはず。
なのに、何故こんなことをするのか、優菜にはわからなかった。
そしてそれを、昼食の際に令に言ったが、令はそんなに気にすることではないだろうと軽く考えていて、全く優菜の心配を考えてはくれなかったように思えたのだった。
その日、仕事を終えると姫乃が優菜に「連れて行きたい場所があるの」と言って、手を握って連れて行かれた。
その場所は、高いものが売られていることで有名なデパートだった。
「わ、私お金なんて……」
いざと言う時の逃げるためのお金、それは使えない。
「いいの。私が奢るわ」
姫乃はにこにこと楽しそうにしていた。
そして姫乃は優菜を連れて洋服から下着まで、どんどん優菜に似合うものを買っていく。
「こ、こんなに要りません! 私、今持ってるもので、十分です……」
そう言うと、姫乃は「ダメよ。あなたは令の婚約者なんだから、ちゃんとしたものを着なくちゃ……。令にも迷惑が掛かるのよ? いいの? それに、あなたも元々はいい素材なんだから、ちゃんと磨かなきゃ。もったいないわ」と言って、優菜が断れないようにしてしまう。
「とりあえず、一週間分買ってあるから、明日から下着と洋服、着てきてね! 毎日チェックするから、ちゃんと着てくれないと、ダメだからね!」
姫乃は微笑んで、荷物を優菜に渡して帰って行った。
優菜は家に帰ると大量に買われてしまった洋服や下着を見て頭を抱えていた。
洋服は上品なものが多く、問題はないのだが、下着が……少しばかりセクシーなものが多かったのだ。
優菜が好むものよりも、という意味で、一般的な下着ではあるのだが、それでも優菜には少し刺激的なものであることには間違いなかった。
それを、明日から着て行かなければならない。
まさか下着のチェックまではしてこないだろうが、洋服のチェックはしてくるかもしれない。いや、もしかしたら下着も……。更衣室で見えてしまう部分だから、下着も変えなければならないかもしれない。
「もう……どうしよう……」
頭を抱え、優菜は悩みながら、仕方なく明日からは下着も洋服も着ていくことにするのだった。
そして次の日、やはり優菜は姫乃によるチェックを受けているのだった。
ちゃんと言われた通りに下着と洋服を着ていることをロッカールームでチェックされ、問題がないと言われて安心していると、今度は仕事であれやこれやと指導されるようになった。それも、あまりいい指導のようには思えなかった。
「あなたのためを思って言っているの。ごめんね。厳しいかもしれないけれど、受け入れてくれると嬉しいな」と、断れないようにしていろいろと仕事のやり方をあれやこれやと口を出すようになってきたのだった。
周りはそれを親切でやっていると信じ込んでいるから、受け入れなかったら優菜が悪いことになってしまう。だから優菜は断れなかった。
だが、姫乃は部長だ。どうしてそこまで自分に構えるのだろうかと優菜は不思議に思っていたのだが、持ち前の主人公としての世界の都合のよさからだろうと思うと、その不思議さは不思議ではなくなったのだった……。
そして日を追うごとに精神が辛くなっていく。少しのことで、否定される。さらに、あなたのためを思ってという理由つき。これでは、拒めない。周りからの目もある。
しかし優菜はそんなある日に、どうしても辛くて耐えられず、思わず「やめてください……」とついに言ってしまった。
すると姫乃は静かに泣き出した。
周りからは非難の目が集まり、またいつもの手かと、優菜は呆れていた。
でも、姫乃は「ごめんなさいね。伝え方が下手だったみたい……。もうちょっと、考えて、優しく伝えるからね」と今後も継続させると言ったのだった。
優菜はそんな日々を、受け入れるしかなくなってしまうのだった……。