首筋の赤い痕。それがこの修羅場の全ての原因と言っても過言ではない。
(さすがに恨むよ……、陽)
「令、あの、これは、好きで付けてもらったとかじゃなくて、無理矢理……」
「無理矢理? あいつ、自分だけは優菜のことを守れるようなことを言っていたのに……。優菜、こっちに来い」
「や、やだ……。なんか、怖いよ……。令」
「いいから」
そう言われ、抱き寄せられる。
すると首筋に噛みつくようにいて令がキスマークを上書きしていく。
「んっ、れ、令……っ! 何を……っ」
「あいつにやられたところ、全部俺が痕を付け直す。そうでないと気が済まない」
「……っ」
熱い吐息に、舌のざらりとした感触が肌を滑って、何とも言えない気分になる。
それは、令も同じようで、いつもよりも少し息遣いが荒いように優菜には感じられた。
「ふ、……うぅっ」
こういった経験がほとんどない優菜には、刺激が強い。
キスマークを上書きされる度、膝をもじもじとさせ、奥歯を噛み締める。
「力、抜け。取って食うわけじゃない。……それより、他にされたところはないか」
「他……って……?」
「胸とか、太ももとか……。あいつの考えそうなところ全てだ」
「そ、そんなところにはされてないよっ。いい加減にしてよ、令っ!」
「男の醜い嫉妬だと思うだろ。ああ、その通りだ。俺はくだらない嫉妬をしているんだ。あいつに先を越されたと思うと、悔しいし最悪な気分だ」
「……令って、そんなに嫉妬深い人だったんだ」
「何だ。急に」
「っふふ、ううん。怖かったんだけど、なんだか、令も人間なんだなって思えて……」
「……何も笑うことはないだろう。こっちは本気で心配した上に苛立ちもしたんだからな」
「うん、それは……ごめんなさい……。私も、上手く抵抗出来なかったから」
「はあ……。あまり、俺の前意外でふわふわするな」
「ふわふわ……? 私、そんなにふわふわしてる?」
「雰囲気がな。そんなに無防備だと、男に狙われてもおかしくはない。だから、陽にも襲われる。写真だって、男が撮影いた可能性があるだろう」
「写真は……わからないけれど。でも、うん……。気を付ける、ね」
令はため息を吐くと、額に手を当てた。
(毒気を抜かれる。あんなにも嫉妬に狂いそうになったと言うのに。だが、この無防備さをどうにかしなければ、その内とんでもないことに巻き込まれる可能性もあるかもしれない。俺も、いつでも助けられるわけではない……。今回は、優菜を信じて待ってみるか。なんとか、写真の件は解決出来るかもしれない。もし、ダメだったらその時は俺が動けばいい。それにしても、最近、優菜が襲われている時にどうして声が聞こえないんだ……。何か、発動条件のようなものがあるのか。こんなことなら、もっと調べておくべきだったな……)
そんなことに今更ながらに気づいた令は、自分に呆れるのだった。
「どうしたの? 令」
「いや……。何でもない」
「……そう。わかった」
「それより、何か危険なことがあったら、必ず俺を呼べ。心の中でもいい。きっと助けに行く」
「うん。でも、心の中でって、どういうこと?」
「心で呼んでいれば、通じることもあるだろう」
「そうなの? うん。じゃあ、そうする」
(なんだか、令がどんどん私にいろんな表情を見せてくれるようになった。とても嬉しい。でも、同時に不安にもなる。何かを隠してるんじゃないかって。あの姫乃と結託して、私を亡き者にしようとしてるんじゃないかって……。姫乃のための世界で、私が令と結ばれるなんて、そんなこと、それこそおとぎ話のようなものだから。……ああ、ダメ。そんなことを考えちゃ。私は私が生きることだけを考えなくちゃいけないのに。もう、すっかり令に惹かれてる……)
優菜はそう思うと切なくなった。いつか訪れる終わりを想像すると、どうしても寂しくなってしまうのだった。
「……昼休みが終わってしまうな。すまない。とにかく、無理はするなよ」
「うん。ありがとう」
「……スカーフで首元を隠すのを忘れずにな」
「あ。うん!」
きゅっとスカーフを結んで、優菜は令の部屋から出た。
「随分と、長いことお楽しみだったのね。——優菜ちゃん」
「……小鳥遊部長」
「そのスカーフ、似合わないって言ったのに」
そう言って、姫乃はスカーフを奪い取る。
「……令と、そういうことをしてるの」
姫乃から冷たく、低い声がした。
「これは、違う……っ」
(答えには気を付けないと。姫乃を怒らせたら、何をされるかわからない。令とそういうことをしてるなんて答えたら、私は終わる……っ)
「じゃあ、誰」
「これは……陽、です。一ノ瀬陽……。ほら、俳優の、私達の先輩です」
そう答えると、姫乃は酷く歪んだ笑みを見せた。
「ああ、あの陽さんね……。そっか、じゃあ、令を返してくれるんだよね?」
「え」
「よかった。私のところにいつまで経っても令が返ってこないから、どうしようかと思ってたの。そっか、そっか。陽さんとそういう仲なんだ。随分と、仲のいいこと」
「……違う。私と、陽はそんな仲じゃ、ないです」
「まさか、そういう行為しておいて、捨てたの? 結構、凄いことしちゃうんだね。優菜ちゃんって。それとも、捨てられたのかな? ねえ?」
「とにかく、違うんです……」
「あ、その反応! 捨てられたの!? 可哀想ー!」
「陽は、そんな人じゃ、ありません。それに、私も、そういうことは」
「……黙って。あなたの本当のところなんてどうでもいいの。私は、私の令さえ戻ってきたらいい。それだけなの」
「……そんな」
「でも、いい話をありがとう! 毎日、楽しみに過ごしていてね。きっと、もっと面白い毎日がやってくるから。もうしばらくだけ、令を貸しておいてあげる。ちゃんと、お別れしてね。そうじゃないと、私、今度こそ何をするかわからないから」
姫乃はそう言って去っていった。
(ここで、婚約を白紙にしたら……私は、生き残れる? ううん。違う。きっと、不要になったら姫乃は容赦なく叩き潰す。だから、私は生き残れない。ましてや、令に優しくされていたから、姫乃にとっては目障りなはず。もう、どうしたらいいの……)
そう思いながら部署に戻ると、周りから冷たい視線を貰うこととなる。
スカーフを首に巻いていないことに気づいた時には、もう後の祭りだった。
「すっごい痕……。令さんって案外、独占欲強いのね」
「まさか。きっと別の人よ。令さんがあんなことをするとは思えない」
「じゃあ、浮気? 見かけによらないものねー」
主に女性社員からないことばかりを噂され、辛い思いをする優菜。
そのまま終業時間まで、落ち着くことも出来ずに好奇の視線に晒されながら仕事をしたのだった。
更衣室に行くと、くすくすと笑い声がして居心地が悪い。結局着替えられたのは、皆が帰った後だった。
ばたん、とロッカーを閉めると、小さくシャッター音が聞こえた。
優菜はここで気づかれたと思わせてはいけないと咄嗟の判断をする。
そしてわずかに足音がして、離れて行こうとしているのがわかると、優菜はヒールを脱いで、出来る限り足音を立てずにその犯人と思わしき人物の後を付いていく。
きょろきょろと挙動不審なその人物は、同じ部署のあまり目立たない女性社員だった。
その女性社員は会社の出入り口に行くと、ある人物と話していた。
上手く話している人物が見えなかったが、一瞬だけ、その顔を目にすることが出来た。
その人物とは……。
「嘘でしょ……。妹の、美奈子……?」
目をよく凝らして見てみたが、やはり妹の美奈子で間違いなさそうだった。
スマホを取り出して、恐らくデータを受け渡ししている。
そして、茶封筒を女性社員に渡すと、笑って去って行った。
「ごめんなさい。見ちゃった……」
優菜がその女性社員の前に出て、そう言うと、その女性社員は諦めたような笑みを浮かべて「見つかっちゃいましたか」と言った。
「今の」
「ええ。あなたの妹さんの美奈子さんです。なんでこんなものが必要なのか、私にはわからないですけど、お金をくれるって言うから、取引してたんです。でも、もうバレちゃったから、やめますね。きっと、あなたもこのままじゃ終わらせないのでしょう?」
「……はい。でも、わからないの。どうしてあなたが、私を売ったのか。私、あなたには何も悪いことしてないと思うんだけれど」
「好きだからですよ。令さんのことが。小鳥遊部長なら、似合うからちゃんと手を引けました。でも、あなたみたいな人が令さんと一緒になるなんて、私、耐えられなかった。そんな時、美奈子さんがその気持ちはよくわかるって、理解してくれたんです」
(……美奈子は、人に取り入るのがとても上手だから、きっとそれをこの人にも使ったんだろうな)
「利用されてるってわかってた。そうじゃないとお金なんて渡さないし。でも、あなたが、令さんと幸せそうにしているのを見るのが、嫌だった。それだけです」
そう言って、その女性社員は帰っていった。
まさか、そんなことで人から恨まれるなんて思ってもみなかった優菜は、ショックを隠せなかった。
だが、とりあえず帰らなくては。そう思って、ヒールを履いて帰ることにした。
家に帰ると、優菜はとりあえずいつものコーヒーを淹れて、心を落ち着かせることにする。
まさか、妹まで関与しているとは思わなかったため、悪い意味での驚きだった。
「小説では、こんな展開なかったのに……」
そう呟いて、淹れたてのコーヒーを飲む。
あの妹が敵だと、面倒だな、なんて思いながら。
「盗撮された写真、妹が悪用してたらどうしよう……。困ったなぁ。あの子、一度やり出すと止まらないから……。令に助けを求めたところでこれは『家族』の問題だし……うーん……」
優菜はコーヒーをまた一口飲んで、妹との出会いを思い出す。
あの時、既にその片鱗があったようにも思える。
あの子は、愛される天才だ。姫乃と同じく。でも、この世界の主要人物ではない。だから、放っておいても大丈夫だと、そう思っていたのに……。
「一度も、お姉ちゃんって、呼んでくれなかったもんね……」
虚しい気持ちが、胸を締め付ける。