「家に帰して。お願いだから、何でもするから」
「何でもしてくれるの? だったら、結婚しよう。俺と」
「そ、それは話が違う……でしょ……! 陽が怖いよ。そんなこと、今まで一度だって言わなかったのに!」
「ああ、そうだよ。今まで言わなかった。嫌われたくなかったから。だけど、さっき優菜言ったよね? 何でもするって。あと、お願いって何度も使ってるけど、そんなに多く使っちゃいけないよ。もう、わかっただろうけれど、悪い人にもそのお願い、使われちゃうよ」
「っや、やぁっ!」
優菜の拒む手に全く動じずに、陽は優菜のブラウスのボタンを上から一つずつ外していく。
「やっぱり……、綺麗な肌……。この肌、あいつにも見せたことあるんでしょ。嫉妬でイライラするんだけど」
「陽、やめて! こんなことしても、私は陽のものにはならないんだよ! だから、やめてよ……」
陽はそう聞くと、優菜の口にポケットから取り出したハンカチを入れる。
「……!?」
「可愛い声が聞こえなくなるのは嫌だけど、俺の傷つく言葉ばかり言われたら、さすがに参っちゃうからね……」
そう言って、陽は優菜の両腕をベッドに自身の手で縫い付ける。
「蜘蛛の巣に掛かった蝶々みたいで綺麗だよ。優菜」
陽はそのまま優菜の首筋に噛みつくようなキスをした。
何度も、何度も。実際に、噛んだこともある。
「……っ! ……!!」
優菜は必死に抵抗するが、男の力に敵うはずもない。
「あはっ! 無駄な抵抗はやめておいた方がいいよ。俺、勘違いしちゃうから」
優菜は首を横に振って涙を流す。
だが、陽はそれさえも無視して首筋にキスマークを付けていく。
「これ、令が見たら何て言うかなぁ。楽しみだね」
「ん、ふ……! ……っ! うぅ……っ!!」
「もし、令に捨てられたら俺のところに戻って来るんだよ? そうしたら、たーくさん、いい子いい子、してあげるから」
そう言って、優菜の頭を優しく何度も撫でる。だが、そこへ陽のスマホから着信音が鳴った。
「……誰だよ。こんな時に」
その一瞬の隙を突いて優菜は逃げ出す。
口に入れられたハンカチを取って床に放り捨て、玄関に向かって行くが、陽はすぐに追いついてしまった。
「どこに行く気?」
「家に、帰して……っ。陽、今きっと頭がちょっとおかしくなっちゃってるんだよ。本当の陽は、こんなことしない。だから、私今日のことはなかったことにするから。だから、帰して。こんなの、暴漢と一緒だよ……!」
ハッとして陽は自身の手を見つめてから、優菜を見た。
その瞳は酷く怯え、大粒の涙をぼろぼろと零している。
「違う……。俺、そんなんじゃ。ごめん。優菜、ごめん……っ! 俺、優菜のことになると頭がいっぱいになって、不安になって!」
「陽……」
「本当だ。俺、頭おかしいんだ。こんなこと、優菜にするつもり、なかったのに。もう、しちゃったことは取り消せないってわかってる。だから、今後何らかの形で必ず優菜のためになることをするから……。許して、くれなくていい。俺はそれだけのことをやったから」
「……」
「最後に、抱きしめて、いい? そしたら、その乱れた服、綺麗にしてさ……。家まで、送るから」
「……うん」
優菜を抱きしめると、仄かに甘い香りがした。強い柔軟剤や香水のような匂いではない自然な匂いに、陽は泣きそうになる。
(——この匂いを、どうしても手離したくない。今は、令に一旦預けておく。でも、今に俺の手に堕ちてきてくれるように、少しずつ、少しずつ……。そうしていつか、本当に笑い合える日が来るように、俺、頑張るから。あいつには、そんなこと、出来ないだろうし)
陽の瞳は濁ってしまった。物事を正常に考えることが、出来なくなってしまう。それは優菜への愛が歪んで、その形に変わってしまったからだった。
「優菜、帰っていいよ。どうする? 俺、後ろから何もないように見てようか。気まずいでしょ……」
「う、うん。ごめん……」
「俺が仕出かしたことだから、大丈夫。こっちが、ごめん、だよ」
そして優菜と陽は距離を置きながら、優菜が無事に家に辿り着くまで歩いていた。
幸いにも何もなく、優菜が家に入るのを確認した陽は、すぐに家へと引き返していった。
陽は虚しい気持ちで胸がいっぱいになってしまう。
もしかしたら、もう優菜は自分に対して笑顔を見せてくれないかもしれない。そう思えてしまうからだった。
それでも、あの令よりはマシだと、本気で思っている。
「またな、優菜」
そう呟いて、陽は自身の家に入っていった。
家に帰った優菜はシャワーを浴びて、鏡で自身の首筋にある赤いキスマークをどうしようかと悩んでいた。
「さすがにヘアアイロンで火傷しました……は、気づかれちゃう、よね。数が多すぎるし、いつも火傷しないもの。どうしよう。令にどう説明したらいいんだろう。会社でも、また何か言われるのかな……」
次の日のことを考えると優菜は憂鬱な気持ちになった。
そして眠れない深夜、優菜がスマホを見てみると令と陽からメッセージが入っていた。
令からは無事かどうかと、謝罪の言葉。そして陽からは今日はどうにかしていたということと、令と同じく謝罪の言葉があった。
優菜はどちらにも怒ってないし今日のことは気にしてないからと送った。しかし、実際のところ、二人に対して明日からどう接したらいいのか、悩んでしまうのだった。
令には絶対にキスマークについて聞かれてしまうだろうし、陽もこう言ってしまっては何だが、危険人物のようなものだ。元々、この世界の登場人物というだけあってなるべく関わってはいけないと思っていたが、まさかこんな形でそれを思い出すことになるとは思いもしなかった。
「……結局、一睡も出来なかった。私、何してるんだろう」
優菜はその後眠ることも出来ず、ただ横になって目を閉じ続けたり、途中スマホを見たりしてベッドの上で過ごしたのだった。
気づけば朝日が見えて、朝が来てしまったのだと知った時の優菜の疲れ切った頭では、乾いた笑いも出てこない。
とりあえず、仕事の時間まで、少しでも眠気を飛ばし、このキスマークをどうにかする方法を考えなくては。そう思った優菜は自分の大好きなコーヒーを淹れて、朝食を食べることにした。そしてテレビを点けてみると、いつものようにニュースが流れていて、ゲストとして陽が出ていて思わずチャンネルを変えたが、そこでも陽の映像が流れていたためテレビを消した。今の優菜には、陽の存在は毒のようなものだった。
そして、優菜は出勤前にスカーフを首に巻いてみた。
おしゃれにも見えるし、制服とも相性がいいスカーフの色と柄だ。これならば、文句を言われずにいられるだろう。
優菜が出勤すると、皆優菜のスカーフなど見えないのか、それとも意図的に無視しているのか、何も言ってこなかった。どこかほっとした様子で、優菜は仕事に打ち込む。
とは言っても、まだあの写真や画像の犯人がどこかにいるかもしれないと思うと、集中することは難しかった。
そうこうしている内に、昼休みになり、優菜は令の部屋へと向かって行った。
令の部屋に入ると、令が既に待っていて、昼食を食べに行こうか、などと話をしていた時のことだ。
「そういえば優菜、そのスカーフ、どうした?」
「あ、これ、おしゃれでしょう? なんだか、たまにはいつもと違うことをしたいなって思って。気分転換にもなるから……。似合わない?」
「いや、似合ってる」
「ありがとう」
「昼食はどこに食べに行こうか。行きつけの……」
令がそう言っている間に、姫乃が部屋に慌てた様子で入ってきた。
手には茶封筒を持っている。
「令! 優菜ちゃん! 今朝ね、私の家にこんなものが……!」
姫乃がそう言って封筒の中身をわざとらしく机の上にざっと出して見せた。
「な……!? 優菜の、着替えの写真……!」
「優菜ちゃん、ここ最近画像も社内メールで皆に送られていたみたいなの。私のところには来ていなかったから、多分、直接関係がある人とか、上の人間にはあまり配られていないんだと思う……。だから、気づくのが遅くなっちゃって。ごめんね。優菜ちゃん」
とても心配した様子で姫乃は優菜の顔を覗き込んだ。
優菜は顔を真っ青にさせて、両手を握りしめて震えていた。
「優菜、お前知っていて……」
「令も、優菜ちゃんをこんな風に守れないなんて、ダメじゃない」
「……これは、姫乃が命令したということは」
令がそう言うと、姫乃は酷く傷ついた表情を浮かべた。
「私がそんなことするはずがないわ! 神に誓って、そんなことはしないわよ。それに、もしそうなら、私が今ここに居るなんて普通思わないと思うんだけれど?」
「……それが本当であれ、嘘であれ、後々わかることだ。とにかく姫乃は、この部屋から出て行ってくれ。いいな」
「……ええ、そうするわ。ああ、それと優菜ちゃん。そのスカーフ。似合わないから、外した方がいいと思うの」
そう言って、姫乃は部屋から去って行った。
姫乃は部屋の外で、思っていた反応よりも鈍かったことに面白くないと思い、誰にも聞かれないところで舌打ちをした。
「優菜、この写真は一体どういうことだ。前からやられていたのか? ……黙っていないで、答えたらどうなんだ」
「ごめんなさい。心配させたくなくて……。前から、あったの。だけど、犯人もそれ以上はしてこなかったし、なんとか、自分で解決させたいの! いつまでも令に頼りっぱなしは、嫌だから……」
「はあ……」
優菜は目をぎゅっと瞑った。怒られるかもしれない。そう思ったのだ。しかし、いつまで待っても、怒られることはなかった。逆に、抱きしめられ、頭を撫でられる。
「え……?」
「そこまで言うなら、やってみろ。だが、苦しくなったり、助けが必要になったらすぐに俺に言うこと。それが、俺の出来る精一杯の譲歩だ」
「……うん! ありがとう。あ……っ」
その時だった。スカーフが緩み、床へとひらりと舞い落ちる。
優菜の首元が露わになった。
「……優菜、さすがにこれは見逃せない。誰にやられた」
酷く冷たい言葉に、優菜は泣きそうになる。
「……言えない」
「ということは陽だな。優菜の知り合いの男と言えば、陽くらいしかいないからな。あの後、イイことでもしてたのか。婚約者の俺には、そう簡単に触れさせもしない癖に」
「違う! そんなこと、してないよ……」
「優菜。お前、本当は俺でも陽でもどちらでもいいのか? ああ、違うな。陽の方がいいんだろう。婚約を白紙にしたいとも言っていたからな。さぞ、陽の方が好みなのだろう」
「本当に、違うの。信じて……」
思わぬ嵐の到来に、優菜は冷や汗が止まらなかった。