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 第二十二話 言い争い

「令のせいで、優菜はこんな目に遭ってるってのにさ、令は何の解決策も用意してないよね? お前、それで男なの? 優菜を守りたいって本気で思ってるなら、今すぐどうにかしてみせろよ。優菜はいつも会社で何をされるかわからない恐怖を持ちながら働いてる。あの姫乃からの嫌がらせだって、表に出てないだけで裏ではどれだけあいつが動いてることか……」

「ちょ、ちょっと陽……。そこまで言わなくても」

「優菜は黙ってて。大丈夫、俺が……」

 そう言いかけた陽はにこりと微笑んだ。

 陽は再び冷たい視線を令に送る。

「大体、婚約者って言うなら、優菜のためを思って身を引くことも考えてやれよ。お前は優菜に相応しくない」

 優菜はこの時、婚約を白紙にするならここがターニングポイントかもしれないと思った。

 しかし、どういう理由か、今、婚約を白紙にしたいと強く願うことが出来ない。だから行動に移せなかった。陽に乗りかかる形で「白紙にしてください」と言えば、それで婚約は白紙になったかもしれないのに、それが出来なかった。

(私……なんで。ここで婚約をなかったことにしてくださいって言っちゃえば、そうすれば全て解決するのに。嫌がらせもなくなって、私は一人で自由に……)

 そう思った時だった。これまでの令との思い出が優菜の頭の中を駆け巡る。冷たかった令が、少しずつ氷を溶かしていくようにその表情を和らげていき、一緒に笑ったこともあった。

 いつの間にか、優菜の中で令の存在がとても大きな存在になっていた。

(やだ……。私、嫌なんだ。令と離れるの……。令と、一緒に居たいんだ)

 優菜はそう気づいてしまった。

「優菜、どうした。涙が……」

 気づけば優菜は涙を零していた。

「あ、ううん、なんでもないの。涙、なんで零れちゃってるんだろうね。あはは、変だね……っ」

 そう言って目元を擦る優菜の手を優しく掴んだ令は「目元、擦ると赤くなるぞ」と言って、そのままキスをした。

 優菜はゆっくりと瞼を閉じる。

「涙、止まったな」

「……何も、陽が居る時にこんなこと……」

 陽から目を背ける優菜と、余裕の表情を浮かべている令、そして陽は何も感じさせない無の表情を浮かべていた。

「へえ、そういうことするんだ。お前ら。いつの間にそんな仲になったのかは知らないけれど。でも優菜、そいつのこと信用しちゃダメだからな。そいつは冷酷なんだよ。使えないってわかったら、すぐに優菜だって捨てるやつだ。わかるだろう」

「俺はそんなことはしない」

「今までだって、そうやってお前に擦り寄ってきた女を、お前は何人も捨ててきたじゃないか。優菜にも同じことをするに決まってる。親が決めた婚約者だから、都合がいいってだけで、本当は好きでも何でもない癖に。俺の方が優菜のことを知ってるし、わかってる」

「やめて、陽……。お願い」

「優菜……」

 陽は悲しげな優菜の表情を見て、そんなにもこの男が好きなのかと思うと嫉妬で頭も胸も締め付けられて痛いほどだった。

「話が、それだけなら俺は帰るぞ。やはり、馬鹿は嫌いだ。話し合いにもならない。優菜、すまない。この後、少しばかり用事があるんだ」

「あ、そうだったんだ……。ごめんね。知らなかったの。いってらっしゃい。気をつけてね」

「ああ。……いってきます」

 優菜に見送られて、令は帰って行った。

 陽はソファーに座ったまま、項垂れていた。

「陽、ごめんね」

「……なんで優菜が謝るんだよ。謝るのは、俺だよ。あいつのこと、引き離せなかった」

「ううん。いいの。それに引き離してなんて、私頼んでないし……。でも、どうしてそんなに私のこと、気にかけてくれるの?」

「ごめん、あとで、話す。……外、出ない? 俺の家、行こうよ。ちょっとは、気分が晴れるかもよ」

「いいけど……」

 そう言って、優菜は陽と一緒に家を出た。

 そして陽の家に行くと、陽は家の中に優菜を迎えた。

 陽の家はまるでアーティストのためのような部屋が多く、令とは真逆の家だった。

「ごめんね、ちょっと散らかってて」

 そう言うが、どこも散らかっている様子などない。

「ううん。……でも、意外。自分の写真とか、飾らないんだね」

「ああ、そうする人もいるだろうけど、俺はやらないよ。だって、ナルシストみたいだから、あまりそういうことしたくないんだ」

「ふうん……」

 陽は優菜をリビングではなく寝室に通し、ベッドに座らせる。

「何か、飲み物いる? あまりいいものないけどさ」

「飲み物は大丈夫。ありがとう」

「ねえ、優菜、大事な話なんだけど」

「え? う、うん」

「あいつとの婚約、破棄してくれない?」

 優菜は一瞬何を言われたのかわからなかった。だが、何度か同じ言葉を頭の中で繰り返すと、何を言われたのかわかった。

「なんで?」

 優菜がそう聞くと、陽は優菜の隣に座って優菜の腰を抱く。

「あいつと婚約してるからこんな目に遭うんだろ? だったら、それさえなくなれば、優菜は自由になれる。俺、手伝うよ。そしたらさ、一緒にどこか行かない? 海外でも国内でも、好きなだけ一緒に飛び回ろう」

「ま、待ってよ! そんな、急に言われたって……出来ないよ……。こっちにも、立場みたいなのがあるし、令にだって、そういうものがあるんだよ? 急にはい、さようならって、出来る程簡単なものじゃないから……」

(何を言っているんだろう。私。本当は、それが一番楽で簡単なはずなのに……。いつの間に、令のこと……。こんなにも……)

「そうだよね。急だったから、びっくりした、よね。うん。ごめん。だけどさ、わかってほしいんだ。俺はいつでも優菜の味方だって。優菜のためなら、俺、何でもするから」

「……それは、嬉しいけれど」

「それでも、あいつの方がいいの? どうして? あいつは優菜を苦しめてる元凶なんだよ」

 陽は自身の檻の中へと、優菜を入れようとしていた。

 その自由に動き回る足に足枷をして、自分の作った酷く綺麗な鳥かごの中に入れてしまおうと、そう考えている。

 自分の作った檻の中なら、優菜を守れると本気で思っているからだ。

 それは、あの令の近くに居させるよりもずっと安心で、安全で、何よりも傷つけさせないと信じ込んでいる。

 だが、同時にそれは優菜の自由を奪うことだと、陽は理解していた。そのことについては仕方がないと、そう思っている。それに、自分だけを見るようになればいいと陽は思っていた。

 こんな気持ち、優菜に知られてしまったらきっと嫌われてしまうだろう。そう思いながらも、これ以上優菜がボロボロになっていくのを陽は見ていたくはなかった。

「優菜、俺さ、優菜がこれ以上可哀想なことになるの、嫌なんだよ。頼むから、あいつから離れてくれ……」

 陽は優菜を閉じ込めるようにして抱きしめた。

「……っ」

 優菜はそれを拒む。力いっぱい、陽の胸を押して、その腕から逃げようとした。

「やめてっ」

「優菜……。頼むから、あいつなんかじゃなくて……」

「えっ」

「あいつじゃなくて、俺を選んでよ……っ」

 その声は余裕がなく、泣き出しそうな声をしていた。

「……陽は、確かに凄く優しくて、素敵な人だよ。でもね、そういう人には見られないの」

 優菜は正直にそう言った。

「昔、陽が苦しんでた時、私も苦しんでた。お互いにその時助けられたんだよね。でも、それが同時に私達を縛る鎖になっちゃったんだとしたら、良くないと思うの……」

「そうだね。でも、そのお陰で俺は今もこうして生きていられるんだよ。優菜。だから、俺決めてるんだ。優菜が望むことを何でもしてやるんだって。優菜が望むなら、仮に人を殺すことだとしても、俺は厭わない。それが優菜の望むことなら、俺は全て捧げてそれを……必ず……するから……」

 あまりにも優菜を妄信する陽に、優菜は少し恐怖を覚えた。

 自分はそんな風に思われる人間ではないのに……と。

「やめて……。お願い、陽。怖いよ。私にそこまでする価値なんてないよ」

「そんなことない! 優菜は、俺の全てなんだよ? どうしてわかってくれないんだよ。優菜が傷つく度に、俺も傷ついてるの、わからない?」

「それは、私のためじゃない……。絶対に、違う。それは陽自身のためでしょ? 私はそんなことお願いしてないもの。お願いだから、普通に戻ってよ! 私達、ただの友達なんだから!」

 陽はそう聞いて、目を見開いた。

(そうか。優菜にとって、俺って、ただの友達なんだ。だから、それ以上は絶対に望めないんだ。……馬鹿みたいだ。こんなことなら、もっと早くに、こうしていればよかったのに)

 そう陽は思うと、自分を嘲笑うかのように、優菜にも見えないところで笑みを一瞬だけ浮かべた。

 そして優菜の肩を押してベッドに押し倒す。

「やっ、やだっ! 陽、何、してるの……っ!」

「……何って、こうすれば、優菜は俺のこと、絶対に忘れられないだろ。……俺のことだけ、見てくれるようになるよね。そうだよね」

「……落ち着いてっ」

「落ち着いてるよっ!」

 陽はそう言うと、片手でベッドサイドテーブルにある香水を後ろの壁に投げつけた。

 鈍い音を立てて、香水は床に落ちる。幸い、割れることはなかった。しかし、優菜に恐怖を植え付けるには十分だった。

「何、どうしちゃったの。そんなにビクビクしちゃって。うさぎみたい……。かーわいい……」

 優菜の耳元でそう囁いた陽は、そのまま優菜の右耳を舐めた。

「……っひ、ん。やだ、やだぁ……っ」

「俺さ、ずーっとさ、優菜のためを思って、いろいろ我慢してきたんだよ。ずっと、楽しくしていたかったから。幸せだって、感じてほしかったから。今みたいに、怖がってなんてほしくなかった。だけどさ……」

 次の瞬間、優菜が見た陽の表情は——。

「怖がってる姿も、いいね。俺だけを見てくれる、俺だけの優菜……。もっと、俺だけを見ていてよ」

 歪んだ笑みだった。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。優菜がそう思うと同時に、陽は酷く嬉しそうに優菜の頬に触れる。

「ずっと触れたかったんだ。ああ、泣いちゃった……。可哀想。だけど、可愛いね」

 陽は微笑みながら、優菜の髪を撫でた。

 優菜は恐怖で動けない。

「最初から、こうすればよかった」

 再度、陽は繰り返すのだった。


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