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 第十八話 下手な看病

 朝、目を覚ました優菜は酷く鈍い頭痛がした。後頭部が重い、それでいて、頭を締め付けるような痛み方だった。これはどう考えても昨日の雨と、あの出来事のせいだろう。

 とりあえず、上司に連絡を入れて、嫌味を一つ、二つくらい零されたが令の存在が恐ろしいのかそれ以上は言ってこなかった。

「最近休みすぎだなぁ。私……」

 そう言いながら、ふらふらとした足取りで顔を洗いに行く。

 洗面所の鏡で見た自分の顔は非常に赤く、熱が高いことが十分にわかる。汗も掻いていて、目が潤み、何ともだらしない表情をしていると思いながら顔を洗い、そして洗い終えると歯を磨き、パジャマのままリビングに行き、ソファーに倒れた。

(ソファーが冷たくて気持ちいい……)

 そのまま、優菜はしばらくしたら寝てしまった。

 ……それからしばらくして、遠くで何か音が鳴っている気がした優菜が目を覚ますと、気づいたら時間が過ぎていたようで、昼の十二時頃を回っていた。

(何の……音……。インターフォン……? 誰だろう)

「はーい……」

 そう言って玄関のドアを開けると、そこには令が立っていた。

「優菜……!」

 優菜を見た瞬間、令は驚きの表情へと変わり、素早く家に入ると鍵を閉めて、優菜を抱えて寝室へと向かって行く。

「あれ、令……。寝室の場所、わかる……の……?」

「ああ。入るなと昔言われた部屋だろう。それより、こんなにも熱が高そうなのに、どうして助けを呼ばなかった」

「……ごめんなさい」

「いや、謝らせたいんじゃ……。その、すまない」

「……いえ」

 優菜がちらりと令の顔を見ると、目が合った。すると令は目を背ける。

 何故だか、顔を赤くしていた。

(なんでこんなにも色っぽく見えるんだ……。ただ熱を出しているだけだというのに。今までも、優菜は熱を出した時、一人でこんな姿のまま耐えていたのだろうか。よくよく見てみれば、息も上がっているし、どう見ても辛そうだ。……今まで、本当に俺は何をやっていたのだろうな)

 令はそう思いながら、優菜の部屋に行き、ベッドに優菜をそっと下ろし、布団を掛けた。

「令……、ありがとう。でも、会社は?」

「気にするな。婚約者が熱を出しているかもしれないのに、仕事に集中出来るはずがないだろう。午前だけ出て、早退してきた」

「……」

(令が、仕事よりも私を優先してくれたの? ありえない。でも、事実、こうして来てくれている。どうしちゃったんだろう。これは、夢なのかな……)

「どうした? ぼーっとして。まさか、熱が上ってきたのか?」

 令がそう言って、優菜の額に自身の額をぴったりとくっ付けた。15152

 思わずぎゅっと目を閉じた優菜に、令は自身のしたことがどういうことをしようと見えたのかがわかり、慌てて額を離す。

「悪い……」

「ううん、心配してくれているって、わかるから……。その」

「?」

「ありがとう……、令……」

 ふわりと微笑む優菜に、令は胸が罪悪感で締め付けられた。

 昨日、助けてやれなかったのに。もっと言えば、姫乃のことさえ知らずにいたというのに。

 それなのに、お礼を言われる。

 令はそんなことを言われる立場にいないと、自分自身が一番わかっていた。

 だからこそ、取り返しのつかないことを悔やんでいた。

(優菜は昔から、こうして何かある度に周りに助けを求めず、求められずにひとりで孤独に耐えていたのだろう。頼ろうとしてきた優菜を、何度裏切ってきただろうか。せめて、これからは俺がしっかりして、昔の分まで……愛してやりたい……。だが、そう思うのはただの驕りだろうか。そもそも、愛を知らない俺に、人を愛することなんて、出来るのか……)

 ふと沸き上がった間違いを起こしてしまったことに対する恐怖。大切な人を失くすかもしれない。そう思うと令は柄にもなくその恐怖に精神を犯された。

「令……?」

「……すまない」

「え……? あ……っ」

 ふわりと森林を思わせる香りが優菜を包む。

(あ……、そっか、私……。今、抱きしめられてるんだ)

 ベッドの上で覆い被さるようにして令が優菜を抱きしめる。

(ダメ。こんな……、一時的な優しさに絆されてしまっては。いくら熱があるからといって、そんなことは許されない。許しちゃ、いけない。自分のために。まだ、死にたくない)

「令、風邪が……」

「いい。そのくらい。お前よりも強いからな」

 そう言って、令は優菜の唇に自身の唇を触れさせる。

「! ……ん」

(これ以上は、ダメ)

(これ以上は、ダメだ。止められなくなる)

——自分を。

 お互い、もう少しで自分を止められなくなるところだった。

 封じ込めていたはずの人を求めてしまう優菜の心。そして、優菜を求める令の心。

(嫌われたくない。……俺も、熱に浮かされたか)

 そう思いながら、令は優菜の頬に手を添えた。

「熱いな」

「……」

 優菜は静かに瞼を閉じて、令の手に頬を摺り寄せる。

 その時、令は確かに幸せを感じた。手のひらにある優菜の高い体温。生きていると、そう思わせてくれた。

 そこへぐう……と、優菜のお腹の音が鳴った。

「そう言えば昼食がまだだろう。何か作ろう。すまないが、キッチンを借りるぞ。何か食べたいものはあるか?」

「お粥……かな」

「わかった」

 お粥を作って、出来上がると優菜はずっと食べていなかったこともあり、ゆっくりではあるものの、お粥を完食した。

 あの冷酷な令が、不器用にふーふーとお粥を冷まして優菜の口に運ぶなど、誰が想像しただろうか。

 さらには「身体、拭けるか? 温かいタオルを持ってきたが……」と、慣れない看病を自分から率先してやっていく。

 優菜からすると不思議でしょうがなかったが、助かっているのも事実。優菜がお礼を言うと令は部屋から出て「終わったら、呼べ」とだけ言って廊下で待つのだった。

「ふふっ」

 優菜はあまりに下手な、でも心の籠った看病に、思わず笑顔になった。

 そして温かいタオルで身体を拭き、背中を拭こうとしたところ、まだ火傷が治りきっていなかったためか痛みが走る。それも、熱があるため痛みがいつもより増して感じられるのだった。

「痛っ」

「優菜、どうした!」

 すぐに部屋に入ってきた令に身体を見られまいと、優菜はタオルで必死に自身の身体を隠す。

「わ、悪いっ!」

 すぐに背を向けた令に、優菜はほっとしながら布団の中にある毛布を手繰り寄せ、それを身体に纏わせて背中だけ見えるように背を向ける。

「令……。背中の火傷、痛くて……」

「火傷、まだ痛むのか。……見ても、いいか?」

「うん……」

 令が優菜の背中を見ると、前に見た時とほぼ同じ状態であることがわかった。

「治りが遅いな……。薬を塗ろう」

「うん。お願い。薬はそこの棚に置いてあるから……」

「これだな。塗るぞ」

「んう……」

「やっぱり、痛むか?」

「うん、少し……ね」

「大事を取って、明日も休む方がいい。お前の上司には俺から伝えておく」

「ううん。明日は、出たいの。ずっと家の中にいると、息が詰まっちゃうから」

「だが、他のやつらに何かされた時に、また守れるかどうか」

「私は、そんなに弱くない……」

「だが」

「お願い。どうしても、出たいの。負けたみたいで、私嫌なの」

「……わかった」

 どうあっても折れない優菜に、令が折れた。

 そして薬を塗りながら令は思う。

 こんな風に火傷の治りが遅いのは、昨夜塗ってやれなかったからだろうと。

 同時に、昨夜何があったのかを優菜に聞きたくて仕方がなくなった。

 だが、聞いたところで何になる。優菜を余計に傷つけるだけではないだろうか。

 そう思うとなかなか聞くに聞けなかった。

「……ありがとう、令。これで、火傷、少しは良くなると思う。令のお陰だね」

「いや、元はと言えば俺が悪いからな……」

「……ううん」

——ここで、絆されてしまってはいけない。

 優菜は自分が令に惹かれていくのを感じ、危機感を持った。熱に浮かされながら、ぼーっとした頭で、生き残るためにはこの人はダメだと必死に頭の中で警鐘を鳴らす。

 姫乃から逃げなくてはいけない。それは、どんな時でも一番優先されるべきこと。そのためにはこの「小説」の世界の主要人物から離れること。それが一番手っ取り早く、確実な方法なのだから。

 でも、こんなにも近くなった令のことを考えると、優菜は自然と涙が出てきてしまうのだった。令はその涙を見て「綺麗だ」と言ってキスをする。

 ああ、昨夜のあの出来事が頭を過る。

 優菜は目を見開いて令を軽く押し返し、拒む。

「優菜……?」

「よく、よくこんなこと……出来るね……。私、私ね、昨日……」

「……」

「襲われ……っ」

 続きは言えなかった。その言葉を言ったら、全てが終わってしまう気がして。

 この優しい悪夢が、終わってしまったら、今度は何も残らないようなそんな気がしてしまったから、優菜は続きが言えなくなってしまった。

 しかし、それでも令にはその意味が十分に伝わった。

「優菜……、ごめん」

 優菜は目を大きく見開いて令を見た。

 そこには冷酷な婚約者ではなく、ただの男の令がいた。

 今まで、絶対に使わなかった「ごめん」という言葉をもう一度呟き、令は優菜を抱きしめた。

 優菜は宙を漂う手を、令の背中に回していいものかどうか、迷いに迷って、その背中を抱きしめ返した。

 初めて、心が通じ合ったようなそんな気がした。


「それじゃあ、優菜。明日は出勤の時に迎えに来るから、それまでに風邪が治るといいな」

「うん……。ありがとう」

「……また、明日」

「うん。また明日」

 令は優菜の家から帰り、優菜はまた家で一人になった。

(令が、変わってきている。あの眼差しは、冷酷な婚約者の目なんかじゃない……。でも、どうして。姫乃から、どうして私に。ううん。もしかしたら、これも罠かもしれない。信じきれない。……こんな私を、令は許してくれるのかな)

 優菜はそう思いながら再びベッドに横になり、眠りに就くのだった。

 一方で令も、優菜に対する想いがより強くなり、胸が温かくなっていくのを感じていた。

 車を走らせながら、明日から、これまで以上に周りに目を光らせて優菜を傷つけようとする者達を近づけないようにしようと心に決めた。

 これまでしてきてしまったことは仕方がない。あったことは変えられないのだから。

 だが、これからの未来は変えられる。令は、そのこれからの未来を変えていこうと心に誓った。

 そして二人はその日を終えていく。

 翌日から、またも優菜や令を悩ませることが待っているかもしれないなどとは、優菜にも令にもまだわからない……。


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