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第三話

 翌日、いつものように朝がやって来た。

「今日は、何事もありませんように……。昨日のようなことが、ないといいな」

 会社に着くと、姫乃が優菜の席に座っていた。

 周りには新入社員が集まっている。

 がやがやと騒がしい中、楽しそうな姫乃の声が聞こえた。

「ここをね……、こうして、こうすると……。ね! 簡単に出来ちゃうの!」

 にこりと微笑む姫乃。

「凄いですね! 優菜先輩はこういうこと教えてくれなかったですよ」

(教えるほどのことじゃないと思ったことかもしれないじゃない……。自分で探すことも仕事だと思ってあえて言わなかったこともあるのに)

 自分なりの仕事の仕方を教えていたつもりだった優菜は、少なからずショックを受けた。でも、優菜に対する新入社員からの不満はまだこれだけではなかった。

 昨日の出来事があったから出たであろう不満。

「そうそう。やっぱり婚約者ってだけでここに居るんですかね」

(そんな……)

 優菜は何食わぬ顔をして挨拶をして自身の席に行こうと思っていたが、思わず柱の陰に隠れた。

 他の社員達からは「ど、どうしたの?」と言われることもあったが、優菜は「しー」と、人差し指を口元に当てて、黙っていてくれと頼む。

 するとなんとなく察したのか、他の社員達は「面倒事には巻き込まないでね」と言わんばかりに頷いて自分の席に行くのだった。

(……こんなこと、言われるなんて思っていなかった)

 職場という場所で、こんなにも自分の敵が多いなんて知らなかった。

 優菜はそう思うと自身の足が若干震えていることに気づいた。

 怖いのだ。周りに嫌われているということが。

 周りからしたらただのストレスの捌け口かもしれない。でも、優菜にとっては紛れもなく嫌われているという事実に繋がるのだ。堪ったものじゃない。

 そこへ姫乃は少し困ったように眉を下げて微笑む。

「そんなこと言わないの。優菜さんは、ああ見えておっとりしてるところがあるから、きっと知らないだけ。それに優菜さんだって良いところいっぱいあるんだからね! みんなが知らないだけだよ。だから、ちゃんと先輩を敬うこと。わかった?」

 まるで学校の先生のように明るくいじめは良くないよとでも言うように、優しく言うものだから、周りも笑って頷く。

「はーい。でも、やっぱり令さんには小鳥遊部長の方が絶対お似合いですって」

「そうですよー。令さんだって本当は姫乃先輩が良いって思ってますって」

 そう言われた姫乃は申し訳なさそうに、でも嬉しそうにこう言うのだ。

「もう。みんなそんなことを言わないの」

 和やかな雰囲気。この空間は、狂っている。だからこそ、気づかれちゃ、いけない。優菜はそう思い、声を出さないようにしていつ出ていくかタイミングを窺っていた。

 だが、いつまで待っても姫乃はそこから退こうとせず、ずっと困ったことはないかと聞いたり、上司との付き合い方などを教えたりしていた。

 まるで、何かを待っているかのように。

 これはおかしいと、さすがに優菜も思い、隠れるのをやめて、皆の前に出て行こうとする。

しかし、歩こうとした優菜のその手を引っ張り、複数の女性社員が優菜を給湯室へと連れて行ってしまった。

「な、なんですか……。私に、何か用事があるんです、よね……?」

 優菜がゆっくりと辺りを見回すと、そこには姫乃の取り巻きの一部である三人がいた。

 取り巻きと言っても、姫乃も把握しているかわからない下っ端の平社員の三人だったのだが……。

「小鳥遊部長に謝ったら?」

 機嫌が悪そうに、その女は優菜にそう言った。

「え……?」

 優菜は突然のことに反応が遅れた。しかし、それが気にくわなかったのだろう。優菜の顎を掴んだ女は「昨日、小鳥遊部長を泣かせてしまってごめんなさいって。皆の前で謝るの。当然でしょ?」と、煙草臭い息を優菜に吐いて、そう言った。

さらにそれに他の二人も続く。

「そうよ。あと令様の婚約者でごめんなさいって、これも皆の前で言うこと」

「本当に、小鳥遊部長と令様が可哀想。謝りなさいよ。仕事もちっとも出来なくて、私達のお荷物なんだから」

(どうしてここまで言われなくちゃいけないの。でも、謝れば……。ううん。そんなことしたら、令に怒られる。姫乃も望んでいないことをされたって、いじめたように見えるってきっと私を恨む。謝っちゃダメ。謝ったら、それこそ負けてしまう……)

「話、聞いてんの?」

「痛いっ、や、やめてっ!」

 優菜は髪の毛を掴まれ、引きずられた。

「犬みたい」

 そう言って、三人は優菜ことを笑っていた。

 ぱっと手を離され、優菜は軽く床に倒れ込む。

「何その被害者ですって感じ。体に教え込まないとダメかなぁ。ここ、給湯室だし、何したって、私達のせいじゃなくて、あんたのせいに出来るもんね」

 一人は薬缶に水を入れ、お湯を沸かし始める。

 優菜はその先にある行為を考えると、ぞっとした。

(こんな子供じみたいじめ、どうしてするの……! でも、度を超している。怖い。怖いよ……っ)

 優菜は逃げようとしたが、一人の女に阻まれた。

 そして右手を踏まれ、痛みに身を捩る。

「やめて、やめて……! 痛い!」

 そう言うと、右手をさらに強く踏まれてやっと解放される。

 解放されたまま逃げてしまえばよかったのに、逃げられないのだと優菜は思い込んでしまい、逃げられずにいた。

 三人はそんな優菜に次々と言葉を浴びせるのだ。

「こっちの心も痛いのよ。なんでって、小鳥遊部長が、あまりにも可哀想でね」

「あんなに笑顔だけど、裏では泣いてるんだよ。あんたのせいで」

「あんた、生きてる意味ないんじゃない? どうせ、財閥の操り人形でしょ。だからここにも居られるんでしょ。私達と違って、仮に試験を白紙で出しても面接で何も言わなくても採用される。そんなやつに、誰が助けようなんて思う? 仕事だって上の空。皆言ってるよ。やる気がない要らないやつだって」

(え、私、そんな風に、言われてたの……?)

 優菜はショックだった。踏まれた右手のじんじんとする痛みもわからなくなるほどに。確かに仕事は上の空だったかもしれない。でもそれはここ最近の話であって、好きでそうしているというわけでもない。それに、この会社に採用されるためにどれだけの教育を受けてきたことか。面接だって、何度も練習してやっとの思いでここに入れた。……そう、思っていた。

 まさか、採用されたのは全て令の命令で……?

 そんな風に思ってしまうのも、自然なことだった。

 もしかしたら、婚約者が採用されなかったら恥ずかしいと思うかもしれない。令のことだ。あの手この手を使って、無理にでも会社に採用させることだろう。

 ……つまり、少しは実力で入ったと思って多少なりともプライドを持っていたが、それを見事に打ち砕かれたのであった。

 優菜は涙を流し、嗚咽を漏らす。

 だが、三人はそんなのは知ったことじゃないと言わんばかりに、さらに酷いことをしようとした。

(助けて!)

 優菜は心の中で助けを求めた。

(私を、誰か助けてよ!)ふと、頭を過ったのは令だった。

 彼ならば、もしかしたら助けてくれるかもしれない。卑怯かもしれないが、まだ婚約者だ。

 だからこそ、助ける価値があると思ってくれるかもしれない……。

(お願い、助けて……。助けてよ……)

 三人の女達には聞こえないらしく、三人はそれぞれで優菜に手を伸ばした。

 薬缶から、水が沸騰してお湯になった時の、あの高い音が聞こえた。

 コンロの火を止め、薬缶に手を掛ける女の姿が視界に入る。

(助けて。令……!)

 強く願った瞬間、給湯室に人が入り込んできた。

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