手には鞄とコートがあり、令も帰るところなのだと一目でわかる。
「令!」
姫乃は見るからに乙女の顔をし、令の近くに行くと令の腕に自らの腕を絡めようとした。
とても嬉しそうで、周りは美男美女が揃ったと微笑ましそうに見るのだが……。
「公衆の面前で、そういうことをするな。昔の学生時代とは違うのだから」
令は静かにそう言うと、姫乃は「いいじゃない。少しくらい」と言って聞かなかった。
昔は、令の方が折れて腕に腕を絡ませてそのまま帰ったり、どこででもくっ付いてくる姫乃を「全く……」などと言いながらも放置したりしていたため、ここまで堂々と皆の前で令は私のものだと言わんばかりの行動をするようになった。
さらには、本当の婚約者である優菜よりも、似合ってしまう美男美女の二人だ。
「なんだかお似合い。優菜先輩、あの方は姫乃先輩の彼氏ですか?」と新人が言う。
まだこの会社に来たばかりで財閥の事情など知らないらしい。
新人のその言葉に、優菜は何も言えなかった。
まさか自分が婚約者ですなんて言えもしない。そもそも、令と姫乃は本当にお似合いなのだから。
見た目からしても、頭の良さからしても、優菜以上に姫乃は令の婚約者らしい人だった。
穏便に済ませたい。何もごたつきなど起こしたくない。そう思った優菜は愛想笑いをして、先に帰ろうとしたら令がそれを止めた。
「どこに行くんだ。優菜」
冷たい令の視線が優菜を突き刺す。
何も呼び止めるだけでそんな目をしなくてもいいのにと思いながら、優菜は頭を軽く下げた。
「すみません。少し具合が悪いので、先に帰らせていただこうと思いまして……」
これは嘘ではなかった。姫乃にされたことを思い出したため、具合が悪くなってしまったのだ。
令は面倒そうに優菜にこう言う。
「だったら早く言えばいいものを。何のために婚約者がここにいるのか、わからなくなるだろう。具合が悪いと聞いて、そんな状態のお前を一人で俺は帰したりはしない」
そこまで薄情な男ではないと言わんばかりに優菜のことをじっと見る令に「えっ、ええっ!?」と、新人の女性が酷く驚いた様子で令と優菜、そして姫乃を見ていた。
「……ごめんなさい」
何に対して謝っているのか、優菜にもわからなかった。
ただ、申し訳なさと切なさ、虚しさのようなものが胸を占めた。
姫乃はそんな優菜のことを見抜いた上で、あえてこう言う。
「そうよ。優菜さん。具合が悪いなら悪いって言って? その方が、みんな助かるから。ね? 皆さん」
そう姫乃が言うと、周りもそれに合わせて頷いたり「そうだよね」などと口々に言い出した。
何も悪くない優菜のことを、周りはまるで悪いかのように言い始めたのだ。
(ああ、最悪だ。彼女の優越感に繋がる餌を与えてしまった……)
優菜はそう思うと、右腕が少しばかり痛くなった。前に、姫乃に熱いコーヒーを掛けられた場所だった。まるで姫乃のように、優菜をいじめたいのか。それとも、姫乃に反応して古傷が痛むのか。どちらにしても、優菜にとっては苦い痛みだった。
でも、腕が痛もうと何だろうと、今は姫乃のご機嫌を取るのが何より優先するべきことだった。
「本当に、ごめんなさい。でも、そんなに酷くないから、小鳥遊部長に心配されるほどでは……」
優菜はそう言って早くこの場から切り上げたいと思っていたのに、姫乃がそれを許さない。まるで蛇のように優菜を締め付けて苦しめようとするのだった。
「……私こそ、ごめんなさい。昔みたいに、仲良くしたくて、それに心配だったから……。そう思ったのが、不味かったかしら。でも、また仲良くしてくれると、嬉しいな。そう、思っただけなの」
姫乃はそう言うと力なく微笑んで、涙をほろりと零した。
「た、小鳥遊さん、本当に他意はなくて。ただここが職場だから」
優菜はそう言いながらハンカチを姫乃に手渡そうとハンカチを持った右手を差し出した。するとその手を令が強く掴んで制した。
「痛い……っ。令さん……?」
令はそのまま優菜の腕を叩き落とすかのように手を離すと、酷く優しい声色を出す。
「姫乃、大丈夫か。このハンカチを使え」
令は自分のハンカチを姫乃に渡し、姫乃はそのハンカチで涙を拭いた。
そして優菜の方を見た令は、無表情のはずなのに、どこか苛立っているような表情に見える。
「人の気遣いを無駄にするな。お前のようなやつが婚約者だと思うと……。情けない。どうせその具合の悪さも日ごろの不摂生が祟ったものだろう。自己管理をしっかりしろ。……姫乃、行こう」
そう言って姫乃を連れて、去ろうとする令に姫乃が止める。
「ま、待って。違うの。令。これは、私が勝手に泣いちゃったから優菜さんが気遣って私にハンカチを差し出してくれたのよ? 見ていたでしょう? だから、優菜さんは何も悪くはないの」
(この女は……。自分のためなら、他人をどこまでも酷いやつに見せることが出来るんだ。小説では、もっと健気で頑張っている印象だったけれど、いざやられてみると、そんな風にはとても思えない)
「姫乃は優しすぎる。それから、優菜。お前は、勘違いさせるようなことをするな。いいな」
「はい。……ごめんなさい」
全く悪くない場面だったはず。なのに、周りはすっかり姫乃のペースに巻き込まれ、姫乃の味方となった。
「姫乃先輩が可哀想……」
「小鳥遊部長に対してあの態度って何?」
「あのハンカチ、わざとらしかったよね」
周りが口々に言い始めると、居た堪れなくなった優菜は「すみません。お先に失礼します」と言って会社を飛び出した。令はそんな優菜を、目で追ってすぐに姫乃へと視線を移すのだった。
優菜は帰り道、泣くにも泣けず、ただ地面を見つめて歩いていた。
姫乃に関わるといつもこうだ。自分が可哀想でなければならない。自分が一番でなければ許せない。そんな考え方をしているのだろうと優菜は思う。そうでなければ、説明がつかない。
でも、優菜でも許せないことはある。まだ、ギリギリそれを超えていないだけ。
それを超えたら、優菜は自分でも自分がどうなるのかわからない。
だが今回は、許せはしないものの、まだマシな方だと考えているのだった。
ただ、こんなに周りに晒し者にされるなんて、……嫌な悪夢のような一日だったんだろうと思いながら帰宅する。
家に帰ると、開けっ放しにしていたカーテンの向こうから、街灯の灯りが見えてそれなりに時間が経っていたことを理解する。
カーテンを閉め、優菜は鞄をソファーに置くと、床にへたり込む。
「怖かった……」
ぎゅっと自身の体を抱きしめて、優菜は騒ぐ心臓の鼓動を抑えようとする。
ドクンドクンと、大きく鼓動を打つ心臓。
その鼓動が自分が小説の世界とは言え、本当に生きているということを実感させるのだ。
そして同時に思ったことを誰も聞いていないからと口に出して言う。
「このままじゃ、本当に私、姫乃達に殺されちゃう……! あの小説と同じ展開になって、令を使って私を徹底的に貶めて、殺そうとしてるんだ」
ぽたぽたと涙が床に落ちる。
(とにかく、私が生きる方法を見つけて、実行するしかない。今わかっているのは……、小説に出てくる登場人物達と関わらないこと。これは出来る限りしていけば、その内姫乃も令も私から離れていくはず。そしてもう一つは、金銭的自立。少なくとも、今の私には婚約者というだけで職にありつけたようなもの。普段の仕事振りからしても、一人では生きていけない。だったら、一人で生きていけるように仕事を他にも見つけておかないと……!)
優菜はそう考え、心の中で決めた。
まず、小説の登場人物達とは基本的に接しない。あったとしても接しておかなければおかしくなってしまう場合。また、不自然と思われない程度に接することが必要。特に、枢木優菜は令のことが好きだから、令にはなるべく従順に、好きでいるという印象を与えなければいけない。そこからどう自然に姫乃にその婚約者の座を渡すかだが、そこはまた追々考えていくことにした。
次に金銭的自立について。家からの援助なしで職に就き、そして一人で生きていけるだけ稼げなければならない。今まで令嬢として扱われてきたから、正直な話、今更どうやって他の職でやっていけるのかわからないというのが、優菜の本音である。
でも、何よりも自分の生存が最優先。命が惜しくないなんて、そんなことあるはずがなかった。