翌日、令に火傷の薬を塗ってもらっている間に、婚約を白紙に戻したいと言うことにしようと心に決めて、出社すると、何故か姫乃と令が優菜を待っていた。
周りはなんだか冷たい視線で優菜を見ている気がしたが、それよりも姫乃の方が気になった。
姫乃は酷く泣いていたようで、目元を真っ赤に腫らしていた。
「た、小鳥遊部長、令さん……。どうしたんですか」
「優菜……!」
姫乃は優菜を鋭く睨みつけた。
「姫乃、ちゃんと謝るって、ついさっき言ったばかりだろう。ちゃんと、謝れ。誰がどう見ても、あの時のお前の判断は優菜が可哀想すぎる」
「でも、私は悪くない……。私はただ優菜が、優菜ちゃんが火傷になっちゃうからと思って服を脱がせてあげただけじゃない!」
「だからと言って」
「あ、あの。私、気にしてません……から」
優菜は本当のところは気にしているが、気にしていないと言った。そうでもしなければ、姫乃に何をされるかわかったものじゃない。
「ほら、優菜ちゃんもこう言ってるんだから……!」
「それとこれとは別だろう」
姫乃は令に促されて嫌々頭を下げた。
「……ごめんなさい。私のせいで、嫌な思いをさせちゃって」
「いいんです。気にしないでください。小鳥遊部長が悪くないのは、皆が知っています。だから、頭を上げてください」
優菜がそう言うと、姫乃は頭を上げた。そして一瞬だけ、優菜を酷く悔しそうな表情で睨んだ。
その表情を見た優菜はぞっとした。絶対にその婚約者の座から引きずり下ろしやると、そう言っているかのように見えて仕方がなかった。実際、その通りのことを、この後していくのだろうと思うと、優菜は頭が痛い。
もう、婚約を白紙にする話を令に持ち掛けないと不味い。
(自分が生き残ることだけを考えなければ。動かなければ。日は、早い方がいい。だったら、今日、薬を塗ってもらう時に、言えばいい……。最近はなんだか優しい気がするけれど、でも、姫乃のことが好きということは、きっと変わらないだろうから受け入れてくれるはず)
そう考えた優菜は令に「今日、お話したいことが……お仕事の後に」と言うと、令は一瞬考える素振りをしたが、すぐに頷いた。
「わかった」
この時、令が優菜の心を読みたいと思うと、曖昧ではあるものの、少しだけ何を考えているのかわかった。
自分と離れたがっている。そんな気がした。
(こんな中途半端な状態で離れたいがっている? 一体どういうことだ。そう言えば前にも、俺から離れたがっていた。いつも近くには……姫乃がいた。優菜と姫乃、一体何があったんだ)
そしてその日の夜、昨日に引き続き、令は優菜に薬を塗っていた。
「令さん、ありがとうございます……。それで、お話が」
「ああ。……言っておくが、婚約を破棄したいなんて、そんな話だったらまず受け入れないからな」
「え?」
耳を疑った。まさか先に令からそんな言葉を聞くことになるとは思わなかったからだ。
「なんで……。だって、令さんは小鳥遊さんのことが」
「そこは問題じゃない。俺達は昔からの婚約者だろう。そこは変わらない。その絆は、姫乃よりも強いものだと思っているが?」
「……」
「話はそれだけか?」
令は心の中で、どうしたらいいのかと慌てている優菜を見てやはり何かを知っていると確信した。それを知ることが出来たら、婚約を白紙にしてやってもいいとさえ思っているが、実際は今のところ知ることが出来たとしても婚約を白紙にするとは本気では考えていない。その何かが知ることが出来たら、今度はその何かに対して面白いことが起きるかもしれないと考えているからである。結局のところ、令は優菜ではなく自分を優先しているのだった。
ただ、少しだけ、優菜のことが気になってはいる。自分から離れないでほしいとさえも思いつつある。その気持ちに令は気づいてはいるが、知らぬ振りをするのだった。
そして優菜は令が優菜を離したくないと思うほど、焦りを感じる。離してくれなければ自分の命が危ういのだから当然のことだろう。優菜は少しばかり不安げにこう思う。
(婚約者にこんな想いをさせる令が、何よりも嫌い。だけど、どうして。最近はそれだけじゃない気がする……。私、どうなっちゃったんだろう)
自分の心の変化に戸惑いを隠せない優菜。
令はその気持ちを読み取って目を細める。そして優菜をゆっくりと優しく抱きしめるのだった。
(俺も、こんな気持ちは初めてだ。優菜に対して、こんな風に思うことはなかったと言うのに……。姫乃にも、なかった。この感情は一体……)
「令、さん……? 何を……」
「もうしばらく、このままで」
「……はい」
優菜は手を令の手に重ねた。
その手の温もりが令に伝わると、心が温かくなったような、そんな気がしたのだった。
令が帰ってから、優菜は一人悩む。
自身の心の変化、そして令の変化。
(この短期間で、何があったのだろう。まさか、自分以外に小説に干渉している人がいる? ……それは、ないか。ただ、これまで以上に姫乃が怖い。令が私のことを守るようになって、それはそれで嬉しいけれど、急に態度を変えられたと姫乃は怒ることだろう。私なんかに、令を取られたと感じて……。それに、どうして令は私との婚約を白紙にしてくれないの。令と姫乃が一緒になるのは、物語が変わっていなければもうしばらく後の予定だけれど、どうなるんだろう。まさか、本当に私と令が結婚することになんか、ならない、よね)
ああだこうだと考えるも、答えは出ない。
優菜は仕方なしにコーヒーを淹れて、心を落ち着かせることにした。
そうしていると、トークアプリにメッセージが届いた。
差出人は、令と陽の二人だった。
令は「先程は急に抱きしめて悪かった」とだけ書いてあって、陽からは「こんばんは。今度ご飯でもどう?」と書かれていた。
二人らしい真逆の文章に、優菜は思わずくすりと笑ってしまった。
つい先程まで考えていたことが、実はそこまで考えなくてもいいんじゃないかと思った。しかし、命に係わる問題であることも確か。どうでもいいと、全ての思考を投げ出せるほどではなかった。
「とりあえず、令には気にしてませんって書いておこう。陽は……ご飯か。令に聞いて大丈夫そうなら行こうかな。でも、令は姫乃と何度も買い物とかデートに行ってたんだよね……」
陽という人物は日本を代表する人気スター、一ノ瀬陽のことだ。陽は海外でも人気があり、日本と海外を行ったり来たりという生活を送っている。
そんな陽と、優菜は友人関係にあった。ひょっとしたら、令よりも話したことがあるかもしれないくらい、親しい仲だった。
彼と遊びに行きたい。何せ会えるのは久々のこと。次に会えるのはいつになるかもわからない。それに、令は姫乃とデートするということを一度も報告してきたことがない……。そう考えると、自分だけ相手に許可を取ろうと思うのもどうかと思った。罪悪感は確かにある。しかし、相手に同じことをされたらどうなるのか、知ってほしいという気持ちもあるのだった。
「……いい、よね。食事くらい」
迷いながら、優菜はメッセージの返信を書いていく。
「うん。いいよ。どこに行こうか」
たったそれだけ。そしてとんとん拍子に、明後日、仕事が終わってから晩ご飯を食べに行くことになったのだった。
優菜からの返信を見た陽は、口元に手を寄せて、その笑みを隠す。
「一緒に行ってくれるんだ……。俺のこと、嫌いじゃないってことだよね。嬉しいなぁ」
薄暗い部屋の中、スマホの明かりが陽を照らす。
その顔は、心の底から嬉しそうな表情を浮かべていた。
「絶対に、恩返しするから。楽しい時間を、作るから……。会えるの、楽しみだな」