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第八話

 令は姫乃に言われるがまま、優菜の家に先回りして優菜を待っていた。

 優菜が家に帰ると、そこには当然令の姿が……。

「令さん……」

「……中に入ってもいいか」

「……どうぞ」

 優菜は一度言い出したら聞かない令の性格をわかっていたため、令を家に上げることにした。

 令は家の中をゆっくりと見ながら歩き、リビングのソファーに座る。

「優菜、隣に」

「その前に、コーヒーを。長くなるかもしれないでしょうから」

「……わかった」

 優菜はコーヒーを淹れ始めた。コーヒーメーカーで、とっておきのエメラルドマウンテンを淹れて、令にはホットのブラックで。自分にはミルクとシロップ入りのアイスコーヒーを用意した。

 テーブルに置くと、優菜は令の隣に座った。しかし、令の顔を見ない。

 令はため息をついて優菜の頬に手を添えると、自分の方を向かせる。

「怒っているのか」

「いいえ。怒ってなど、いません……。ただ」

「ただ?」

「悲しいだけです。昔から、私のことをちっとも理解してくれようとしないじゃないですか」

 静かにそう言う優菜に、令は自身の唇を優菜の唇に押し付けていた。

――まるで「わかっている」とでも、言うかのように。

 そのまま、令は優菜をソファーに押し倒し、覆いかぶさるようにして優菜を上から見ていた。

「何が足りない。こんなにも、お前のことを」

「愛しているとでも、言いたいんですか。令さん。でも、その言葉は私への言葉じゃ、ないですよね」

 令は面倒だと思いながら、優菜の首筋にもキスを落とした。そのまま適当に流されてくれれば、どうにかなるものだと勝手に思っていた。だが……。

「こんなことで、私はあなたの思い通りにはならない。もし、もっと酷いことをされたとしても」

(酷いこと……? 俺が、酷いことをしているだと? 何故、そんなことを)

 優菜がそう言う理由がわからなかった。酷いことをしている自覚などなかったし、姫乃であればこうしていればその内許してくれるものだったから、てっきり優菜ならばもっと単純なものだと思っていた。

「その反応からすると、姫乃さんにも、こういうこと、してるんですね……」

 一瞬だけ、優菜はとても悲しそうな表情を浮かべた。

 その表情が令の頭から離れない。

「すまない。俺は……」

 反射的に謝ったが、優菜は首を横に振る。

「いいですから。とりあえず、コーヒーでも飲みましょう。……冷めちゃいますよ。せっかく淹れたんですから。とっておきの、エメラルドマウンテン」

 囁くような優菜の声は弱弱しく、時に妖しくも聞こえたのだった。

 令はそれに抗えず、ただ一言「わかった」とだけ返事をして、優菜の上から退いてソファーに座り直すのだった。

「そういえば、この前はどうして姫乃さんのところではなく、私のところに来てくれたんですか。私の居場所をわかってたかのようで、正直驚きました。でも……助かりました」

「この前? ああ、給湯室の件か」

「そうです」

「あれは」

(優菜が俺に助けを呼ぶ声が聞こえたなどと言ったら、きっと信じてくれないだろうな。それに、もし信じてくれたとしても、何故来たのかという答えにはならない)

「……なんとなく、通りがかっただけだ」

「そうですか。でも、ありがとうございました。あのままだったら、私、火傷を負っていたかもしれませんから」

 その時、優菜は右手を左手でそっと触れていた。

「まだ、痛むのか?」

「たまに。でも、大したことはありませんから」

 ぎゅっと右手の甲を左手で覆うと、令には見えないようにする優菜。

 令は優菜のその行動が妙に気になり、優菜の両手を掴んで、優菜の右手の甲を見るのだった。

 そこには黒と黄色の痣があった。

「! こんなことになっているのを、何故黙っていた!」

 思わず声を荒げた令だったが、優菜はその声に蔽い被せて叫ぶような声を発した。

「言ったとしても! 言ったとしても、あなたは何かをしてくれましたか……?」

「何かをしてやれたかもしれないだろう!」

「何を?」

「何を……? それは……」

「何かしてくれても、それは表面上のことだけですよね。たとえあの人達がクビになったとしても、私の立場は変わらない。焼け石に、水なんですよ。身体の傷だけじゃ、ないんだから……」

(違う。違うの。本当はそんなこと言いたいわけじゃないの。ただ怖いだけなの。助けてほしいの)

 その優菜の心の声が、令に届いた。

(優菜……。また、俺に助けを求めて……。全て、話してくれれば何か力になれるかもしれないのに。どうして隠そうとする。どうして、俺を遠ざけようとするんだ)

「……優菜」

 令は優菜をそっと抱きしめる。

「すまなかった」

(ずるい。ずるいよ。令。そんな風に、優しく抱きしめないでよ。……怖い。あなたが怖いの。もし、もしも私が本当に)

(……本当に?)

(――本当に、令を好きになってしまったらどうするの)

 そう思った優菜はハッとして、顔を下に向けると、すぐに顔を上げる。その表情は、作られた笑顔だった。

 優菜のその瞳は何も、誰も、映さない。

「令さん、悪いんですが、今日は帰っていただけますか。明日の支度とかもありますし。これ以上ここに居るメリットが、令さんにはないと思うんです」

「いや、だが」

「お願い、帰って、ください」

(本気で好きになっちゃいけないの。本気で好きになりたくないのよ。自分の未来がどうなるか、わかっているから出来ないの)

「……わかった。今日は、本当に悪かった。また、明日会社で会おう」

「はい。おやすみなさい。令さん」

 令が家から出て、バタン……と玄関のドアが閉まると優菜は鍵を閉めた。

「はあ……」

 優菜はリビングに行くと令の飲みかけのコーヒーを片づける。

 シンクにコーヒーを零し、食器を置いてリビングに戻るとアイスコーヒーの残りを飲んだ。

 それから優菜は今日の疲れを感じ、ソファーにうつ伏せで寝そべった。

(鬱陶しい髪……。姫乃と一緒くらいの長さだし、思い切って切っちゃおうかな。そうすれば、令に嫌われるかもしれない。髪は長い方が好きそうだもの。だって、姫乃がそうだから……。でも、そうだな。なんだか、寂しいな)

「本当に、本気で好きになってしまったら、どうするの」

 その言葉を口にした途端、優菜は自分の心の声に気がついた。

「なんだ。私……好きになるのが、怖いんだ……。好きに、なっちゃってたんだ。でも、この気持ちには蓋をしよう。そうしないと、潰される。殺されて、しまうから」

 自分の気持ちに素直になれない。なってはいけない。そんなに気持ちを、誰が理解してくれるのか。きっと、誰も理解出来ない……。

「……寝よう」

 優菜は考えることを放棄し、寝ることにした。

 しかし明日には、また令や姫乃と顔を合わせることになるのだが……。

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