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第四話

令が給湯室に入る直前のことだった。

(令……! お願い! 助けて! 来て……!)

 優菜が令を心の中で呼ぶと、不思議なことに令の頭の中に優菜のその心の声が聞こえるのだった。

 泣き叫んでいるような声や、酷く焦っているような優菜の声。

 令も、こんなことは初めてだった。だが、あまりにもその切羽詰まった声に、自身でも驚くほどに焦るようにして優菜を探し始めた。しかし皆姫乃の方にばかり注目していたらしく、なかなか優菜が見つからなかった。

 姫乃は「具合が悪くなって勝手に休んじゃったのかな? 昔から身体弱かったものね。優菜さん。でも、休むことを報告しないのは悪いよねぇ。社会人としてありえない。……忘れちゃっただけかしら。本当に、心配だね」などと言っていたが、無断欠勤などするような人間ではないと令も優菜のことを評価していたし、言われて気づいた優菜の上司達も慌てていた。このことから、何らかの出来事があったと令は考えた。

 もし、自分が優菜に人前で言えないようなことを言うとしたら、何かしようとするならば……。当然、人目のつかないところに連れて行く。

 だとしたら、居るのはトイレや給湯室……。

 令が社内を走り回っていたら、優菜の声が段々と近づいてくる。

(嫌だ、嫌だ! お願いだから、助けて!)

 そして声のする方へ行くと、やはり給湯室があった。給湯室に行ってみると、そこには涙で顔がぐしゃぐしゃになるまで泣いている優菜と、その優菜の手を踏みつけ、今まさに薬缶のお湯を優菜に掛けようとしている女達がいたのだった。

「お前達、何をしている! その制服のリボンの色からして、お前達は広報部だな」

 令や優菜、姫乃達の勤める会社は制服のリボンによって所属部署がわかる。そのため、令や優菜など、会社に入ったばかりではない者達には、リボンの色でどこの部署の者かすぐにわかるのだった。

「……!」

 三人は一瞬どうしようと表情を歪める。

 だが部署を知られてしまったこと以上に、何故令が優菜を助けに来たのかがわからないといった様子。

「誰がヘマをしたのか」「まさか優菜が助けを呼んだんじゃ……」「それはありえない。ずっと私達が居たじゃない」などと小声でこそこそ言っている間に、令は優菜よりも一歩前に行き、三人の女達により近いところに立つのだった。

 三人は逃げられないとわかると、その内「ふざけていた」と言い始める。

「ふざけていた?」

 令がいつもよりも冷たい声でそう言うと、三人の内の一人が「そうですよ! 女性同士よくあるんです! こうやってふざけて遊ぶこと!」と言い、続いて「本気でお湯なんて掛けませんよ!」と見苦しくも言い訳をし、さらに「そ、それよりも、早く仕事に行こう! 令さんも、こんな女に構ってないで」と言いかけた女の胸倉を令は掴んだ。

「黙れ。お前達如きが汚していい女じゃない。これでも優菜は俺の婚約者だ。……姫乃が命令したとは当然思えない。お前達の独断だろう。次、こんなことをしたら即クビだ。理由は女性社員への身体的、精神的苦痛を与えたためだ。言っておくが、ここにも監視カメラがある。証拠は、先ほども十分俺が見させてもらった。何度も言うが、次はない」

 女性社員三人は逃げ出した。

 三人の言い争う声を聞きながら、令と優菜の二人は三人が本当に去って行ったのを確認すると、お互いの顔を見合わせた。

(令が、助けてくれた……? でも、どうして……。姫乃が仕向けたやつらかもしれないから、てっきり足止めされてると思っていたのに)

 優菜のその声も令には届いていた。

(姫乃が仕向けた? 何を……。そうか。これが、優菜の心の声か。……反吐が出る。助けるんじゃなかった。姫乃はあんなにも優菜のことを心配していたのに。こちらもどれだけ心配したことか)

 そう思いながらも、令は戸惑っていた。今まででは、ありえなかった能力が突然手に入ったこと、また、他にも人がいたのに聞こえる声は優菜の声だけであることも理由だった。しかしもう一つ戸惑いの理由はあった。姫乃のせいで優菜があのような目に遭っていたという認めたくない現実があったからだ。ただ、姫乃のせいと優菜は思っているが、実際、姫乃は今回のことは直接手を出していない。あくまでも姫乃のことが好きすぎる取り巻きが暴走しただけなのだった。

(優菜……。お前は誤解している。姫乃は、悪い人間じゃない。とても優しい女性なのに、何故それがわからないんだ)

 そう思う例は、優菜の右手を引っ張り、立たせようとした。

「あっ! ……ご、ごめんなさい」

 優菜は右手を涙目で見つめ、涙を零す。

「……ああ、そういえば右手を、先程まで踏まれていたな。すまない」

 そう言うと、手のひらや甲ではなく、手首を握って優菜を立たせた。

 それでも、男性の力で引っ張られて痛いということは変わらないのに。

「! ……ありがと、ございます……。すみません。もう、こんなこと、ないと思います。だから、ごめんなさい」

(姫乃が何もしなければ、何もないままなのに。でも、あとちょっとで大火傷を負わせられていたかもしれない。今回は、令に助けられたなぁ……。でも、どうして私が困っていることがわかったの。それに、婚約者って……令は、認めていてくれたの?)

 一方で令も……。

(わからない。どうして優菜がここまで姫乃を嫌っているのか。そして、先程のようなことは日常的に行われているのかもしれないということも今まで、知らなかった。一体いつから……? 学生の頃から、既にあったのか? だったら、どうして助けを呼ばなかったんだ。それに、俺は優菜のことを心配していた……。何故だ。こんな女のどこにそんな価値がある。何も出来ない。ただ泣き叫ぶことしか出来ない赤子と同じような女に、俺は何を思っている? 優菜も、俺に何を求めているんだ)

 互いに相手のことがわからない。こんなにも物理的に距離が近いというのに、心の距離はまだまだ遠かった。何年も、一緒にいるはずなのだが、婚約者である身近な相手のことをこんなにも知らないのだと互いに思い知った瞬間だった。

「優菜、今日は早退した方が……」

 令は滅多に見せない優しさを少しばかり覗かせた。

 あまりにこのままでは可哀想だという同情の気持ちも入っていた。

しかし優菜は姫乃や自分、そしてこの世界に負けたくない一心で、それを断る。

「大丈夫です。こんなことで、お仕事を休んでいたら、それこそ先程の方々にまた何かされてしまうかもしれませんから。ありがとうございます。令さん」

 その言葉は本心だった。優菜は涙を拭って、微笑んでいる。

無理をして笑っているその顔が、令には痛く見えて仕方がない。

「……そう言うのならば、好きにするといい。だが、帰りは送っていく。そのくらいは、させてくれ」

 自分でも何を言っているのかわからなかった。まさか、自分から優菜を送りたいなどと言うなんて、年に数回の気紛れでしかなかったのにと、この短時間での自身の変化に令は追いついていけなかった。

 だが、時間は残酷なほど正確に、確実に進むものだ。

「はい。ありがとうございます。帰りは、令さんのお時間に合わせます。皆さん仰っている通り、このままでは給料泥棒、ですから。私は……」

 悔しそうな表情で、でも笑みを見せながらそう言う優菜に令は何とも言えない感情を持った。

(給料泥棒なんて、誰が言っていたんだ。まさか、他にもいろいろと……? 女の嫉妬というものか? それとも。何なんだ。この、訳のわからない感情は……!)

 自分の部署の席へと戻ろうと去っていく優菜を、令は追いかけようとしてやめた。

 まだ、わからない。追いかけていいものか、悪いものか。相手がそれだけに値する人物かどうかさえも。

(まあいい。何故だか優菜の心の声は聞こえる。これでいくらかは、助けになってやれる。……姫乃のことを、悪く言うのは気に食わないが。また同じようなことがあったら、面倒だからな)

もやもやとした気持ちを抱えながら令も仕事へと戻って行った。

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