その女性はひたすらパソコンに向かって仕事をしていた。他の人達は声を掛けたり掛けられたりと、和気あいあいとしているのに、その女性だけ誰に声を掛けられるでもなく、与えられたノルマをクリアするために。
しかし、その女は普通の女ではない。女の勤める会社は一流財閥が仕切っている。女はその財閥のトップ管理層の宮坂令という冷酷な男の婚約者なのだ。
宮坂令は冷酷というだけではない。トップ管理層にまでのし上がっただけあって、有能、さらには顔もいい。女性社員からも男性社員からも一目置かれる、特別な存在だった。
だが一方で、婚約者というだけの女。その名は枢木優菜。ただの平凡な女である。
会う人会う人に、どうしてあの人の婚約者になれたのかと聞かれるくらいに平凡だ。恵まれた容姿をしているが、雰囲気があまりにも平凡すぎてその容姿も霞んでしまう。
そもそも、婚約の話も親同士が勝手に決めたもので、当人達の意思などまずなかった。
生まれる前から決められていたのだから、仕方のないこと。そう済まされてきた。
しかし、今、優菜はそんな生まれながら持った祝いであり、呪いのような婚約を白紙にしたいと願っている。
……否、しなければならない。
(どうしよう。もういい加減、婚約を白紙にしないと。私は、ここに居てはいけない存在なのに!)
そう思いながら仕事をしているものだから、ミスも出るし、いくら社会に出て数年も経たないとは言え、その仕事振りには上司も頭を抱えるほどだった。それでもクビにならないのは、婚約者である令がいるから、というところなのだろう。
優菜にとっては全くありがたくない恩恵である。
もし、令と違う職場を選べていたら、そんな恩恵もなかっただろうし、そもそも令の婚約者などと周りに知られることもなかったはずなのだ。
そうしたら、婚約を白紙にすることがもっと容易だったはずなのに……と、優菜はどうしようもないことを少し思っているのだった。
しかし、何故そうまでして白紙にしたいのか。それは彼女が前世で死亡し、こちらの世界に転生してしまったからだ。
それも、前世ではこちらの世界は小説だった。彼女もその小説を読んでいたから、枢木優菜という存在がヒロインではないことをよく知っている。むしろ、ヒロインとは真逆の存在。ヒロインの敵である悪役なのだから。
(私は、私は悪役なんて出来ない……。そもそも、悪役なんかやっていたら、あの小説通りに進んで枢木優菜は、惨めに死んでしまう……!)
前世の小説ではヒロインの小鳥遊姫乃が健気に、上手に、そして賢く優菜を陥れ、令を奪ってハッピーエンドという物語だった。だが、そのために枢木優菜は実の家族からも見限られ、令からも捨てられ、仲のいい親友さえも姫乃側になって孤独に雨の中を歩き、後に不幸な自殺と言われる事故で死亡したのだった。
前世の小説での優菜も、今の優菜も、決して馬鹿ではない。ただ、婚約を白紙にしてもらうためには馬鹿だって演じて見せた。令に従順な振りをして、今も婚約者としている。令のことを心の底から愛していたキャラクターだったから、そう見えるようにしているし、実際、物語の関係上、自分が愛していいのは令だけだとも思っているし、令以外から愛される自身もない。もっとも、令にさえも、愛されることはないだろうが……。そんな気持ちで、少しでも事態が良くなるようにと行動する優菜。しかし、それさえも計算だと見られてしまう。どうしようもないほどに人から疑われて見られることがある。それは妬みや嫉妬といったもの、見下したいという人々の欲が悪役である彼女に集まりやすくなっているのがこの世界の仕組みなのかもしれない。
(大体なんで、私がこの世界に生まれてしまったの。でも不幸中の幸い。まだやり直せる……。婚約を白紙にして、その後の人生は穏やかに生きていこう)
そんなことを想いながら仕事をしていると、時刻は十七時を回り、終業を知らせるチャイムが鳴った。各々お疲れ様などと言いながら、帰り支度をする。優菜も帰り支度をして、さあ帰ろうと思ったその時、一番近寄られたくない人物に声を掛けられてしまった。
「優菜さん! お疲れ様!」
落ち着いた茶髪に、薄っすらと施されたメイクがとても可愛らしく、容姿も整っていて美しい。その女性こそ、優菜の警戒する小説のヒロイン。
「……小鳥遊部長、お疲れ様です」
――小鳥遊姫乃だった。
姫乃は優菜に余裕を見せている。
「もう。昔みたいに姫乃でいいって言ってるでしょう? あ、でも、そっか。みんなの目もあるものね」
穏やかに微笑みながらそう言う姫乃に、優菜は心の中で「そうとしか思えないのに、何をわざとらしく」と呟いた。どうせ誰も聞こえない声だ。心の中でくらい、自由に言わせてほしいと優菜は思った。
姫乃が次に何か言おうと口を開こうとした、その時。
「あ! 小鳥遊部長! お疲れ様です! ご活躍はいつも聞いております! ところで、そちらの優菜先輩とは、どのような関係で?」
何とも中途半端な敬語を使うのは最近この部署に入ってきた新人の女性社員だった。
それにしても、そちらの……とは随分と下に見られたものだと思われるほどの下の者を見る目をしていた。だが、優菜はそれよりも気になることがあった。
(わざわざ別部署からやって来て、私にマウント取って、何になるって言うの)
優菜はそう思いながら、どうなるのかと渦中で事態を見続けていた。
「新人さんね。私と、優菜さんは学生時代からの先輩と後輩の仲なの。とーっても、仲がいいのよ」
(……嘘ばかり)
優菜は学生時代にやられてきたことを想い出していた。
熱い季節にわざと水筒を隠されて、水を飲みに行こうとしたら止められて、話を長くして軽い熱中症にさせられたこと。婚約者の令の前で足を引っかけられて、思春期だというのに下着を令や他の人達にまで見られてしまったことなど……。そして許せないのは、それらをいつも笑って見ていたこと。口では心配して、皆から見てもそう見えるのに、姫乃は優菜にだけ見える角度で笑ったり、耳元で「あとちょっとで、もっと面白いことになったのにね」などと言うのだ。
この小鳥遊姫乃は、本当にヒロインとしてかつて読んでいた小説の彼女なのだろうか。そう思い悩むこともあった。だが、今あることが現実であると、そう受け止めるしかなくて、優菜は一人孤独に耐えている。
「うわぁ、いいなぁ! 小鳥遊部長の後輩ってことは、相当可愛がられたんでしょうね! 優菜先輩が羨ましいなぁ!」
(何も知らない癖に)
姫乃はそう思っている優菜の心を知っているように微笑みながら、続きの言葉を待っていた。もちろん、望んだ言葉を出さなければ後々何をされるかわからない。
優菜は仕方なしにこう言う。
「うん。そうなんです。小鳥遊部長が先輩だったから、とても楽しい学生生活を……」
――送った。ただそれだけ言えばいいだけなのに、声が出なかった。嘘を、つきたくなかった。
これまでの屈辱的な学生生活を「楽しかった」などと、そんな嘘を言いたくはない。
だが、そんな優菜に対し、姫乃は目を細めてじっと見つめる。
「どうしたの? 優菜さん」
私に恥を掻かせないでよ。そう言うかのように姫乃は優菜の背中に優しく手を置いて、軽く爪を立てた。
優菜はもしかしたら、あとで少し赤くなるかもしれないなどと思いつつ、少し我慢すればいいのだからと諦めて嘘をつこうかと思っていた。
それでも、嘘はつきたくないものではあるが、この場から逃げ出せるのならある程度は仕方のないことだろうと思っていた。
そこへ……。
「何の騒ぎだ。騒々しい。もう仕事は終わったんだ。お前達、早く帰れ」
姫乃の想い人である宮坂令がやって来たのだった。