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第106話:新たな道

 アンの独立の話が一時凍結となり、しばらく「Toute La Journée」でバーテンダーを続けることが決まった。ここしかないと思っていた場所は、いてほしいと乞われるほどの場所になっていた。

 あの夜、「せっかく準備していたのに」と、アンは文句を垂れながらザッハトルテを食べていた。ケーキを頬張る横顔は、どこか晴れていた。



 休みの日、わたしはナースセンターを訪れた。ここは、潜在看護師が復職する際に練習する場を提供している施設だ。本来は在職の看護師は使えないことが多いのだが、ダメ元で連絡を取ると、講習会がない日なら特別に採血練習の道具を貸してくれるとのことだった。

 香月さんとアンを見たら、なんだか羨ましくなってしまった。

 わたしに待ってくれる場所はないけれど、またどこかの病院で再スタートすることがひとつの区切りになるだろう。


 正直、このままでもいいかと思い始めていたところがあった。まなべ精神科クリニックでの勤務は勉強になることばかりだし、自分の未熟さも感じる。以前のような退職の選択肢はない。それに、カフェ&バー「Toute La Journée」の面々にも恵まれた。香月さんも、初対面の印象からは考えられないほどしっかりした人で、今では良い上司だ。アンも芦谷さんも、個性的ながら良い人たちばかりだ。なによりみんな、今のわたしを受け容れてくれている。

 そんなときに思い出したのは、眞鍋院長が言った言葉だった。


――きっと、針が使えなくとも大丈夫だと思えるようになりますよ。


 自分すら信頼できない日に、院長は確かにそう言った。縋るような気持ちで受け取った言葉は、預言となった。



「瀬野夏希さんですね。お待ちしていました」

 施設の建物に入ると、2階に案内された。ひとりにしては広い部屋に、腕の模型がポツンと横たわる。テーブルには針やアルコール綿などの必要物品が置かれ、好きに使ってと言われた。

「訪看でも針使いますよね。普段、どうされているんですか」

 わたしの利用申し込み票を見て、施設スタッフの50代ほどの女性が質問を投げかける。

「訪看は訪看でも、精神なんです。精神科のクリニックが患者向けに小さくやってる訪問看護で。定期採血はクリニックでしますし、身体の訪看とは違うので、針を刺す機会はなくて」

 幸運にも、と思わず口にした自分がいた。

「そうだったんですね。いや、わたしも昔、訪問看護をしていたものですから。ちょっと気になって」

「身体の方ですか?」

「ええ。精神は、受けても認知症併発の方くらいで」

 昔話と言いながらも、利用者の部屋の片づけ具合や、お茶菓子として出されるものの衛生状態の不安などは鉄板ネタだった。

「でも、もともと救急外来でされていたんでしたら、きっと早く戻りたいですよね。訪看のようなゆったりとした地域看護は退屈でしょう」

 バリバリ、と何度言われたか分からない。そしてこの女性スタッフも、まるで台本でもがあるかのように同じ擬音語を口にした。

「いえ、案外楽しんでいます」

 無意識に口が動いた。訪問看護を始めたばかりのわたしからは、到底聞かれない言葉だった。

 伊倉さんと同行訪問していた日々が甦る。

 長く、根気強く関わらないと、一見何の変化も見られないと思ってしまう科だ。合わないと見限らなくて、本当に良かった。伊倉さんの大きさを感じながら、今のわたしは、時間を取ること、そして話をすることの力を信じ始めている。


 最後に、施設スタッフの女性は、今後の利用状況を教えてくれた。

「幸い、今は年度末でもありませんし、模型も使える日が平時よりあります。都度ご相談いただくことにはなりますが、ぜひ使ってください」

 簡単な手続きをすべて終えると、「早く復帰できるといいですね」と言い残して、ドアはぱたりと閉められた。

 ひんやりとしたフロアで、ひとりで腕の模型と向き合う。サージカルテープを切りながら、今日もダメだった場合を考えた。まずはスタンダードな穿刺部位に決め、駆血帯を巻く。アルコール綿を開けて穿刺予定部位を拭くと、人間とは違う感触に冷静さを保った。そして針を準備し、鋭い針の刃面の向きを確認し、皮膚に見立てた模型のゴムを伸展させる。――刺せる。

 そう確信したとき、わたしは模型のゴムに向かって針を進めた。人間の肉とは違う硬さの中、針は突き進んだ。そのうちに血管に当たった感覚がしたかと思えば、すぐに針で逆血が確認できた。

 ただの色水だ。

 小刻みに震える右手の指で、翼状針のはねを押さえる。反対側の左手でシリンジの内筒を引くと、血液に見立てた色水は順調にシリンジ内に溜まっていった。出していたアルコール綿を折りたたみ、スッと抜いた針先と入れ替わるように強く押さえる。

 本当は、止血など必要ない。これは模型で、止まらなくとも気分を悪くしないし、何より死ぬことはない。それでもわたしは準備していたテープでアル綿を固定し、一連の流れを守った。

 すべてを終えると、わたしは近くに置いていたパイプ椅子に腰を下ろした。深く、ぐったりと、身体をもたげる。

 刺せた。できた。

 拍動の乱れを全身で感じながら、いやに冴えた頭を持て余した。

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