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第105話:香月とアン

「俺はあんただから……!」

 一瞬の出来事に、わたしは追いつけなかった。香月さんのクラシックな黒シャツに、大きな皺が寄る。

「ちょっと! アン、待って! 一旦、ストップ……」

 感情的になるアンの手を香月さんから離そうとしたが、強く握られた拳はわたしの力ではどうにもならない。ふたりの頬周りの髪の毛が大きく揺れた。幸い、香月さんは抵抗せず、されるがままアンを静寂の中で見つめている。

「俺は、香月さんだからついていこうと思ったんだ! あんたが俺を知らないと言うなら、もう誰もいない。……なんで謝るんですか? まるでそれが正しいみたいに」

 すると、パッとアンの手が開いた。力なく元のイスに座り、目の前に置かれたままのお酒をあおる。

 解放された香月さんは、乱れたシャツを払った。いつもはフランクな服装でカウンターに立っているが、今日は予約の団体客だったので綺麗めのシャツを着ていたのだ。伸びの悪い生地は、無理に引っ張った跡が残った。


「お前がどうって話じゃない。俺が寂しがってるだけなんだ」


 ふたたび整った衣服の上で、香月さんは、へへ、と気の抜けた笑みを見せた。思いがけない言葉に、場の温度がゆっくり下がっていく。香月さんのその顔を見てからは、誰も怒鳴りつけることなど出来やしない。素直な告白に、アンもわたしも心を掴まれてしまった。

「最近のアンを見てると、心配になる。でも、それが逆に安心だったりもするんだ」

 穏やかな表情をした香月さんとは裏腹に、アンは「意味わかんない」と不貞腐れた。丸腰で語り始めた香月さんに、苛立ちをぶつけられるはずもなく、アンはただむくれるしかなかった。

「昔のお前は、心配なところなんてひとつもなかった。教えられたことをちゃんと覚えてくるし、遅刻もバックれもない」

 例えの稚拙さに、思わずアンが「レベルが低すぎる」と鼻で笑うと、香月さんは「まあ聞けよ」と言って、自分のグラスに入ったラスティネイルを一度流し込んだ。

「お前が辞めないのは不思議だったよ。飽きたらさらっとほっぽり出しそうな涼しい顔をして、ずっとカウンターにいるんだもん」

 そう言うと、香月さんはケーキに手をつけた。一口が大きい。皿の中で立つケーキは、あっという間に1/4ほど無くなっていた。続くように、わたしもフォークを取った。こんな雰囲気のなかでマイペースにケーキをつつくわたしたちに、アンは緩やかな蔑視を向ける。

「……なんだよそれ。辞めるつもりなんて、ハナから無かった。独立だって、本当は選択肢にもなかった」

 アンの気持ちを聞いても、香月さんは「どうだかな」と半信半疑だ。しかし、わたしは知っている。――アンが、香月さんを慕ってお酒の勉強を始めたこと。香月さんの見様見真似でここまで来たこと。

 ザッハトルテのチョコレートが、しつこくフォークに付いている。香月さんは、まるで大切なものを見ているかのように言った。

「せっかくいてくれるんだ。こんな冷めたヤツでも、この仕事に何かやりがいでも見つけてくれていたら、と思ったさ」


 そう優しく微笑んでいた香月さんが、不意に何かを思い出した顔をして、ふたたびアンとわたしを交互に見渡した。

「それがなんだよ。瀬野ちゃんにくびったけのお前、めっちゃ熱いじゃん。俺、そんなの知らないって」

 おじさん困っちゃうだろ、と言って、大袈裟に頭を掻いた。

「……それは、知らなくていいだろ」

「いいや。俺はなんでも知りたがりなの」

 香月さんは、酔ったアンがわたしに絡んだ日のことを話した。自分から絡みに行くアンを見て、今までと違う何かを感じ取っていた。

 アンが大っぴらに拗ねたり傷ついたりする度に、香月さんはアンとの関わりかたが分からなくなっていった。そんなことを急に告白するので、アンとわたしは揃って言葉を失った。


 ケーキの最後の一口を眺めながら、香月さんは言った。

「すごく子どもみたいなやつだ。女の子に構ってほしくて仕方がない」

 わたしは釘を刺すように、香月さんの名前を呼んだ。睨む目がもう一人分増えたことに気づくと、彼は、「はいはい」と両手を挙げる。

「今のお前は危なっかしいよ。見ててヒヤヒヤする。もっとこっ酷く振られればいいのにって、いつも笑って見てんだ」

 それを聞いたアンは「サイテー」と笑い飛ばした。

 いつものふたりが戻ってきた。バカを言い合えるふたりを見ていることが、何より好きだった。

「でも、お前もそんくらいのもんあったのかと思うと、嬉しいさ。それで独立? ……ああ、もしかすると、バーも少しは楽しんでくれてたのかなって。そう思ったときは嬉しかった」

 香月さんは、「お前ならいい店出せるよ」とアンの背中を押す。グッと胸がつまった。

 来年、このふたりがカウンターに立つことはないと言う事実が、一気に押し寄せてきた。アンの独立準備の話を聞く度、逃げ出したくなるほどの痛みが走ったことを思い出す。――わたしも寂しかったんだ。アンがこのお店からいなくなってしまうなんて、到底耐えられない。

 止めたい。そう思ったとき、香月さんが口を開いた。


「でも、まだ店にいてくれ」


 静まり返ったフロアに、香月さんの声が響いた。

「……なんで」

 アンのか細いアンの声は、ひどく震えている。


「そりゃ、俺がまだお前と働きたいから」


 香月さんはそう言うと、ニカッと歯を見せて笑った。その顔を見て、わたしは唇を噛み締める。香月さんがはっきりと言葉にしてくれたことに、安堵で目の前が歪んだ。


 ……なんなんだよ、とこぼしたアンは、俯きながら目元を乱暴に拭った。


[第三章終了]

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