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第104話:閉店後のバーで

「さてさて、始めますか」

 片付けが終わり、見慣れたテーブル配置に戻ったところで、香月さんはグラスを3つ出した。アンはジントニック、わたしはモヒートを頼む。同じものに合わせた方がよかったかと一瞬思ったが、いくらもせず2人分を作り終え、香月さんは自分用のラスティーネイルを作り始めた。いつ見ても、彼の手際の良さは惚れ惚れとする。

 その裏で、アンが業務用冷蔵庫を開けた。中から出てきたのは白いケーキの箱だった。

「香月さん、今更ですが違うんです。連絡したときは、香月さんとアンがゆっくり話すのに今夜がいいタイミングだと思って……」

 アンが、箱にとめられたシールを丁寧に剥がす。

「今何時ですか? まだ早いですけどどうしましょう」

 一次会だったためか、貸切予約の撤収は早かった。そこから片付けをして、時刻はまだ22時半を回ったところだ。

「瀬野ちゃんは終電もあるし、始めちゃおう。はい、飲み物ここ置いとくね」

 ミントの香りが鼻を刺激する。目の前をライムが通り、涼しげなカウンターが出来上がった。

 わたしがカウンター席に座り、香月さんとアンはカウンター内の丸椅子をすぐそばに置いて立った。

「じゃあ瀬野ちゃん、数時間早いけど誕生日おめでとう!」

 ぬるっとした音頭の中、グラスが軽く当たる音がする。「すみません、なんだか……」と小さくなっては頭をひょこひょこと下げる。

「苦手らしいです。誕生日に人といるの」

 ジントニックを一口飲んだあと、アンは香月さんに話を振った。

「なんで? 誕生日じゃん」

 不思議がる香月さんを放って、アンはケーキを箱から出した。焦茶のコーティングが美しい、ザッハトルテだった。

「あー分かった。男に結婚を迫ったか」

「ち・が・い・ま・す!」

 フッと声を漏らしながら、アンは軽く包丁を火で炙った。

「香月さん、皿」

 飲んでいたグラスを急いで置くと、香月さんはケーキを乗せる平皿を3枚出した。フォークも人数分用意している。そこに乗せられたケーキは、断面が何層にもなっていた。柔らかなガナッシュが今にも崩れそうだ。

「家族と不仲。いい思い出がないんだそうです」

 アンはそう説明しながら、3つの皿にそれぞれケーキを乗せ、フォークを添えてひとりひとりに手渡した。そのまま包丁を洗うので、わたしは3人が揃うのを席で静かに待った。

 香月さんはアンにカウンターな席に行くよう促した。アンがわたしの隣に座ったのを確認して、「いただきます」と言うと、アンがそれに続く。

「お前、やっぱり変わったよ。瀬野ちゃんの教育なんだろうな」

って……」

 そんなんじゃないです、とやんわり否定するそばで、アンは目を細めて不満げな顔を向ける。

「こいつ、昔は言わなかったでしょ。……まあ、多少は言ってたかもしれないけど、言わされてる感が満載。プライベートなんか、絶対言わない」

 香月さんの言葉に、わたしはひどく頷いた。黙って食べ始める彼に意図はない。それが彼の当たり前だった。

「仕方ないじゃないですか。子どものころから、周りにまともな大人がいなかったんだから。そんなもんだと思ってましたよ」

 アンがお店で「いただきます」と返すのは、社会への擬態からだ。香月さんも、その違和感に心当たりがあったようだったが、言葉に迷っていつの間にか流れていった。

「やっと、少し人間に近づいた感じがするな」

「人をなんだと思ってるんですか」

 ふたりのやりとりはまるで猫の戯れ合いだ。絡んでいくくせに、どこか相手の様子を伺っている。

 香月さんは「瀬野ちゃんに感謝しないと」と、微笑んだ。その姿には、やはりどこか影があった。


「でも、アンを形作ったのは香月さんですよ」


 ね、アン? と視線を向けると、珍しく恥ずかしそうに顔を歪ませた。

「……急に何を言い出すんですか」

「こう言う話をするために、今日この時間をもらったんでしょ!」

 わたしはアンの右上腕を叩いた。わたしの誕生日など二の次で、本来は香月さんとアンがゆっくり腹を割って話す時間にする予定だったのだから、ふたりに話してもらわなければ困る。

「俺は別に。お酒は教えたかもしれないけど、こんなんはどこでだって学べる」

 しかし、こんな日に限って、香月さんまで及び腰だった。

「すぐ辞めるかと思ったよ。家を出るための金がいると話していたけど、案外バーテンってのは覚えることが多いからな。話も多少合わせられないとダメだ。まるっきりバカには務まらない」

 それを聞いたアンは、わたしの方を見て、「俺、バカじゃないって」と小声でアピールする。「黙って聞きなってば」と彼をたしなめると、少年のような笑顔を見せた。


 独立の話になると、香月さんは、アンが細かな下準備をしていることに感心していた。そのうちに、アンの家庭の話になり、お母さんをひとりで支え続けていた話にもため息をついた。

「アンは、何にも深く興味を持たないヤツなんだと思ってたよ。だいぶ大きな見当違いだったらしい。俺はお前のこと、なーんにも分かってなかった」

 ごめんな、と香月さんが口にしたとき、アンは急に立ち上がり、カウンター越しに香月さんの胸ぐらを掴んだ。

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