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第103話:一次会

 自分からアンの手を取ってしまったことで、急に恥ずかしさが込み上げた。今まで曖昧のうちに隠してきたものが、丸裸になったようだった。

 バータイムの勤務も、どこか落ち着かない。そのうちにスライサーで手を切った。開店前の下準備だった。お客さんのいないフロアに私の声はよく響いて、香月さんもアンもいつも以上に慌てた。

 奥の部屋から、香月さんが小さな救急箱を持ってきた。その中からアンが絆創膏探し出す。

「考えごとですか。……はい、切った指出して」

 流水で洗った指先を、言われるがまま差し出した。拭いたばかりのペーパータオルには、軽く血が滲んでいる。アンはその横に、絆創膏から剥がした台紙を無造作に置いた。

「珍しいですね」

 アンは切れたわたしの指に、絆創膏を巻き付ける。「きつくないですか」と聞かれ、横に首を振った。

「瀬野ちゃん、大丈夫? そのスライサーは海外のヤツだから、よく切れるんだ。気をつけて!」

 香月さんの声にも、「すみません」と言うことがやっとだった。 

 出たゴミをまとめると、アンはすぐにわたしから離れた。絆創膏を持ってきてくれたアンに、一言もお礼を言えなかった。

 今更の話だ。アンと手を繋いだのは、もう何度目か分からない。心境の変化といえば甘酸っぱいが、わたしのそれには後ろめたさが混ざっていた。


 そのうちに月末の貸切営業の日になり、普段は来ない会社の人たちでバーのフロアはいっぱいになった。

 会社員らしく挨拶から始まる飲み会は、偉い方の誕生日祝いだった。一向に挨拶は終わらない。場所を変えても、次から次へと順繰りに誰かしらがお祝いを述べた。

 この日のために準備した軽食と、会社側の持ち込みで会は滞りなく進んだ。お酒の提供ペースは早かったが、半数以上が生中とジンジャエールだったので、むしろいつもより楽だった。


「女の子入れたんだ?」

 会も終盤に差し掛かったころ、幹事の男性が香月さんに話しかけてきた。40〜50代に見えるその人のちらりと見えた名札には、お堅い役職が書いてあった。

「いいでしょ、男ばかりよりは」

 営業スマイルを見せる香月さんの一歩後ろで、わたしは男性に向かって会釈をした。

「俺はアン狙いなんで。お生憎さま」

 途端に女性口調に変わったのを見てわたしがぎょっと固まっていると、香月さんが男性をたしなめた。

「あー、だめだめ。呼びますからね、すぐに」

 香月さんは通報を匂わせ、男性に睨みをきかせて笑う。

 同じカウンターに立つアンの耳にも届いているはずだが、一切構うことなく、オーダーがあった飲み物を準備した。ふたりの様子を見るに、男性の言動は毎度のことのようだった。

「こちらは毎年貸切で使ってくれる、横田さん。偉い人だけど、毎年幹事。変な人だけど、太客」

 香月さんの冷たいあしらいに、男性は「なんて紹介の仕方するんだ」と言いつつも喜んだ。


 アンが作った大量のお酒を各テーブルに配り、オーダーを取って帰ってくると、横田さんはまだアンに絡んでいた。

「ああ、おかえり。瀬野ちゃん」

 いつの間にか名前を呼ばれるようになり、にっこりと愛想笑いを返す。2件のオーダーをアンに伝えると、下げてきたグラスをシンクで洗った。

「俺にももう一杯ちょうだい」

「3番目に。お待ちください」

 必要最小限の会話にとどめるアンとは対照的に、横田さんは香月さんを介してなんとかアンと会話を持とうとした。何度かに一回だけ、アンが相手をする。

「随分お優しくなったもんね」

 横田さんは感心するように言った。

 わたしが「ろくに話してないですよ」と挟むと、横田さんは「昔は一言もなかったりね。そんなのがザラ」とまたアンを見る。わたしが苦笑いする横で、香月さんは首を縦に振っていた。

「独立するならもっと愛想良くしろって、最近も言ったばかりなんですよ」

 途端にカウンター内の空気が張り詰めた。バレないように、アンは黙ったまま手を動かしている。わたしは手持ち無沙汰に手を洗い、香月さんの様子を伺った。

 口火を切ったのは、横田さんだった。


「えー、お店辞めるのか」

「まだ先のことです」


「行くから教えてよ。どこでやる予定?」

「ナイショです」


「ひとりで? それとも瀬野ちゃんも連れていく感じ?」

 呼ばれた名前に、思いがけずあたふたした。

 アンに一緒にお店をやろうと言われたことはない。何より、どこでお店を開くのか、来年と言えどいつ頃なのかすらも、わたしも知らない。知っていることは、横田さんと同じだった。

「瀬野ちゃんは渡さないからな。……まあ、どうしても、って言うなら仕方ないけど」

 香月さんまで参戦するので、事態はより一層混乱した。アンは面倒だと言わんばかりの顔をして、いつもよりガヤガヤとした店内ではっきりと言った。

「瀬野さんは、こんなところにずっといるような人じゃないですから。香月さんだって分かってるでしょ」

 苛立ちを含んだその言葉に、香月さんは返事をしなかった。横田さんに、「瀬野ちゃんは、別に本業があるんですよ」と伝える。横田さんもまた、それ以上深追いしようとはしなかった。

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