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第98話:反省会

 残りの訪問を終え、バーの勤務に向かう道のりは、これまでにないほど大きな反省会だった。

 注意を受けるとき、はっきりと指摘される方が性に合っている。救急時代の名残だろう。一刻が惜しい現場で、相手の読解力に任せた表現はしない。良くも悪くもすべてがクリアだ。

 一方で、眞鍋先生は優しい。口調も選ぶ言葉も。何より追い詰めない。必ず逃げ場を残している。わざと合わせない視線も、立つ位置や角度も、すべてに意味があった。先生がそう振る舞う根拠を知っていても、問いただされないということは、自分のどこかは認めてもらえているという安心感がある。

 とはいえ、切れ味の悪さは切られる側にも伝わる。あとからじわじわとやってくる不甲斐なさが、どうにも苦手だった。

 次にももさんと会うのは、来月になる。常勤さんたちの訪問が続く。しばらく空くその間、精神科のテキストを開こうかと考えを巡らせた。


 お店に続く螺旋階段を降りると、既にドアの鍵が開いていた。わたしは「お疲れさまです」と小声で言いながら店内に入る。

 アンが来なくなり、もう少しで1か月が経とうとしている。

 昼の忙しい時間帯だけヘルプに入った香月さんが、帰らずそのまま休んでいるのだろう。これまでもドアの鍵が開いていることは何度かあった。香月さんと一緒にバーのシフトに入ると言っていた麗奈さんは、ふたを開けてみるとたまにのお手伝いに留まっていた。

 わたしは自分のシフトを増やしていいと伝えていたのに、「無理をして、瀬野ちゃんまで辞められたら困るからね」と、香月さんはへらへらと逃げる。どう考えても一人しかいないバーテンダーに倒れられる方が、明らかにお店の損失だ。

 アンが来なくなって2週間が過ぎたあたりから、本腰を入れてシフト調整を提案したが、のらりくらりとして一切聞き入れることはなかった。

 結局、カフェ勤務の兼ね合いもあり、わたしのシフトは以前と同じ週2のままだった。もっといいシフトの組み方があったんじゃないだろうか。そう考えていたときだった。

「お疲れさまです。……香月さん、今寝てて」

 店内から聞こえた言葉に驚いて振り向くと、アンがカウンターの中に立っていた。


「アン!」

 声を押さえていたことをすっかり忘れ、思い切り彼の名前を呼んだ。

「戻ったの? いつから?」

「今日ですよ。さっき来たところです。誰もいないと思ったら、香月さんが奥の部屋にいて驚きました。あの人、電気もつけずに机に突っ伏してて――」

 不気味だなんだとのんきなことを言う。

「この1か月間、昼も夜も酷使されたら、所かまわず寝たくもなるよ」

 そう言ってわたしが睨むと、アンは眉を挙げ、やがて苦い顔をした。


 お店に出勤しなくなってからも、アンとは何度か会っていた。月島のあとは、厄落としと称して寺社仏閣を巡り、そしてわたしが気になっていた新設のカフェに一緒に行った。それがちょうど5日前のことだ。

「復帰するなら、この前言ってくれてもよかったのに」

「すみません。俺もはっきりとは決めてなかったんです。でもまあ、1か月でいい区切りかなと」

 わたしが小首をかしげると、アンは「さっき瀬野さんも言ってたことですよ」と言った。

「1か月もあれば、香月さんも困るかなって。あの人、1週間や2週間じゃ、多分ワンマンでやれちゃうでしょ」

「可哀そうに、香月さん」

「気が済んだら戻ってこいって言われたので。そのようにしただけです」

 悪びれもせず、カウンターの中で手を動かすアンに、香月さんの様子を聞かせてやりたくなった。この前だって、アンにひとつ連絡するかしないかを、わざわざわたしに相談したほどだった。

「ほかの店だったらクビだよ」

 もう、とため息をつく。

 そこに「分かってます」と答えたアンは、キッチンの片づけをちょうど終えたところだった。もう準備は済んでいると言って、わたしに座るよう促した。

「この1か月、何もしてなかったわけじゃないんです。あの社長さんにももう一度会いました。母の退院後の話で」

 時計を見ると、開店時間までもう少し間があった。エプロンは香月さんが眠っている奥の部屋にある。わたしは荷物を隣のイスに置き、カウンター席に腰を下ろした。

「結論から言うと、母が一人で住んでいたアパートは解約。社長の家で暮らします。これからの受診や入院が面倒だからと、積も入れるようで。あの人の何がそこまでいいのかは分かりませんが」

 彼の語り口はさらりとしたものだったが、その真意は見えない。その収束にアンはどういう感じているのだろう。

「それで……」

「それで? ああ、俺には、店でもやるかと持ちかけて来ました。せっかくバーでの経験が長いのならって。端的に言えば、開業資金を支援すると」

 わたしが聞きたかった言葉以上のものが投げ返され、思わず言葉を失った。

「いや、断りましたよ。さすがに俺もプライドあるので。でも、自分の店を持つっていうのもアリだなと、そのとき思ったんです。――俺、来年この店辞めようと思います」


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