次の訪問は、大学病院の定期受診のためキャンセルだった。あらかじめ決まっていた予定だったが、代わりの訪問は入らなかった。一枠分空いた時間はクリニックへ戻り、記録をすることにした。
休憩室のテーブルには、受付の佐藤さんが定期的に補充してくれる小分けのお菓子が置かれている。チョコレートの包み紙を取り、口の中へ放り込む。手持ちの水筒に入ったお茶を近くに出しながら、わたしはタブレットに向かう。
「そうでしたね。山下さん、今日は大学病院の日だ」
わたしが行くはずだった患者さんの名前が聞こえ、思わず顔を上げる。休憩室に入ってきたのは、診療と診療の合間にコーヒーを取りに来た眞鍋院長だった。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。またすぐ訪問でしょうから、そのままどうぞ」
眞鍋院長はわたしのタブレットに視線を落としていた。
かく言う院長も暇ではなかった。午後のこの時間帯は、まず人が途切れることはない。予約制の枠はすぐに埋まり、一か月先までぎちぎちだ。今も、このコーヒーが出来上がってしまえば、真鍋院長は診察室へそそくさと帰ってしまう。
「ももさんのお母さんの件なんですが」
迷った末に、わたしはももさんのお母さんに会った話を手短に報告することにした。
「お母さんとお会いになったんですか」
「はい。それが結構、個性的な方で」
院長は、お湯を注いでいる途中にも関わらず、こちらに視線を向けた。「危ないですよ」と声をかけると、「ああ、すみません」と怯んだ。
わたしは一番印象に残った話を、院長に伝えることにした。
「子どもができたら、まずは自分を大事にしてって言うんです。親が自分らしくいることが一番だと。そんなような話ばかりで。間違いでもないですが、なんと言っていいか悩んでしまいました」
この引っ掛かりはなんだろうか。小綺麗なお母さんを見て、昔からそうだったと言ったももさんの言葉に引っかかっているのかもしれない。
「それは少々深掘りしたくなる内容ですね」
「はい。先生もご存じの通り、ももさんのご実家は
ふふ、と柔らかく笑う眞鍋院長は、胸ポケットからペンを取り出し、冷蔵庫にあるプリンの在庫を確認しては裏紙にメモを取った。その背中をぼんやりと眺めていると、院長は振り向かずに言った。
「綺麗でしたか」
容姿のことを聞かれたのは初めてだった。わたしを試している。
「年相応ですよ、30代の子どもの母となれば。髪は手入れされているのが分かりますけどね。ももさんの話だと、昔からヘアケアとネイルは好きで手をかけていたみたいです」
爪に塗られたコーテイング剤のテカリが、不自然にぎらついていたことを思い出す。
「お母さんは、自分らしさを知っているんですね」
そう言った眞鍋先生に、首を傾げて精一杯の不満を表した。ももさんのお母さんが、わたしが知らないことを知っているようには見えないかった。そう認めたくもない気持ちがどこかに生まれていた。
「でも、ももさんを見たら、どう思いますか」
すでに出来上がっているコーヒーを片手に、眞鍋先生はテーブルのそばに立つ。白衣から覗くタイピンは、いつかの面接時と同じシルバーのタイピンだった。
「瀬野さんの仰りたいことは分かりますよ。お母さんから手をかけられずに育ったから、愛情を求めるようにパーソナリティー障害を患ったと。その可能性を考えているんですよね」
わたしは頷かなかった。情報が少ないことは明白だし、自分もフラットに見ることが出来ていない自覚はあった。
「生育歴は大切です。確かに要因として疑わしい話ではありますが、もう少し吟味したいところです。おそらく既定の訪問時間では、十分にお話する時間もなかったでしょう。あとは……育児には無数の仕事がありますが、それらが名づけられていないがために、話に
眞鍋院長は、テーブルの隅に置かれたコーヒーフレッシュをふたつ掴んだ。
「表現できる力があるのか、という視点で観察していくのもいいかもしれません」
いつもと変わらない、やさしい口調だった。院長はそっとコーヒーフレッシュのふたを開ける。ゆっくりと流し込まれた白が、不規則なまだら模様を作った。
「今後、お母さんも含めた家族面談の形を取り入れてみましょう。次の診察で提案してみます。いいきっかけを見つけてきてくれました」
目に見えたフォローに、また自分の経験の浅さが浮き彫りになる。口元だけの笑みを返すことが精一杯だった。
「太田さんなどの常勤さんたちにも、この件は申し送っておいてください。来週と再来週は常勤さんたちの訪問日なので、またそこでみてもらいましょう」
では残りの訪問も気を付けて、と言って、院長は部屋を出ていった。