ももさんのお母さんに、「お子さんは?」と聞かれ、首を横に振った。結婚していないことを告げると、ああ、と目をそらして大袈裟に頷く。余計だったと内省したのかと思いきや、思い出したように「でもそろそろね」とつぶやいた。何を言ってもどこか気になる人だった。
「子どもを育てるって、大変だから」
突然始まった話に押され、空気が抜けたような返事を返す。
育児話は面倒だ。子どもは人並みに好きだが、育児という正義をかざされては、「大変ですよね」と分かったような口をきいて共感を示すほかない。子どもはどんな子でも「可愛い」と答え、旦那さんを下げる愚痴には絶対に乗ってはいけない。一緒になって「それはだめだね」などと言った日には、まるでこちらが悪口を言い始めたように手のひらを返される。
しかし、ももさんのお母さんは違った。
「なっちゃんも子どもができたら、まずは自分を大事にしてね」
どんな話も、この言葉に帰結した。
彼女が話しは穴ボコだった。授乳の寝不足やイヤイヤ期のコミュニケーションに悩んだ話は出るものの、食事準備の煩わしさや子どもの遊び場に関する話は一切ない。その穴を埋めたのは、ネイルとヘアケアの話だった。
ママになった友人たちの話を思い出すと、ももさんのお母さんの話とはひどく異なるものだった。離乳食や散歩の話をしない人はいなかったし、自分ひとりで外出することの難しさは誰もが口にしていた。
「あまり覚えていないの。それくらい忙しかったのよね。あとは田中さんに。でも、大変なのは大きくなっても変わらない。楽になるって言うけどね、そんなこと全然ないの」
乳幼児期の話は、ろくに聞けなかった。これではお手伝いの田中さんと話す方がよさそうだと悟りながらも、わたしは学童期の様子を聞いた。
「学生のころはどうでしょう」
「大変よ。ももえ自体は自立してるから、必要なものを買ってあげればいいけど、学校では行事も出てくるし。親の付き合いもあるからね。これが煩わしくて――」
ももさんは、リビングの天井や壁にかかった絵画などを見ていた。その瞳に光が入らない。
そんな娘の姿に気づくこともなく、ももさんのお母さんは学校の保護者会の付き合いがいかに重要かを語り続ける。
「少々時間が迫ってきているので、また今度伺ってもよろしいですか。今日はももさんと面談をしてから失礼しようと思います」
やんわりと話を止めようとすると、「そろそろね。分かってはいるのよ」と早口で何やら言いながら席を立つ。そして機嫌を損ねることなく、手を振りながら部屋を出て行った。ももさんのお母さんは物分かりがいいふりをするのは、ももさんと一緒だ。
「『面談』なんて言ったことないじゃん」
玄関のドアが閉まる音を聞いてから、ももさんが言った。
「お母さんは、お話し好きなんですね。帰れないかと思いました」
ふざけて困った表情を見せると、ももさんはどっと笑った。
「お母さんは昔から自分が一番なの。わたしのことが嫌いとかでなく、ずっと自分自身が一番。だから、必要なものはいつも買ってもらえてる。むしろ多すぎるくらい」
そう言って辺りを見渡す。キッチンにはバリスタ、床の隅にはルンバが家で大人しくしている。テレビ台の下には、無数のDVDが並んでいる。アイドル、韓国ドラマ、ライブ映像など、すべては把握しきれない。
ももさんの言葉は一番しっくり来た。ももさんのお母さんが話すとき、その文章の主語はほとんど自分自身だ。
「ちょっとイマドキですよね。誤解を恐れずに言えば、わたしたち世代のお母さんって、結構育児に身を捧げている人が大半じゃなかったですか。……それも不健康かもしれませんが」
「そうかも。お母さんは昔から『子どものために無理はしない。わたしが無理をすると、子どものためにならないから』が口癖だった。今の時代だったらSNSで大バズリしてる」
ククッと引き笑いしながら、ももさんはスマホをいじった。そして、SNSのとある検索一覧を見せてきた。
――「子どもが遊びを楽しむには、親自身が何かを楽しんでいることが重要です」
――「死なせなければ育児は100点!」
――「お母さんが笑顔でいることが一番!」
写真投稿用のSNSだったはずが、いつの間にか文字ばかりの画像が主流になりつつある。誰が話しているかも分からない情報に、何万件も
「こういうのは、届いてほしい人には届かないものですからね」
うっかり口を滑らせる。感じが悪かったかもしれない。
わたしは慌てて、「一つ目は、学童くらいの大きい子たちが勉強しないときによく聞く教育論な気がします。勉強させるために、まずは親が……という話。二つ目と三つ目は、赤ちゃんから幼児さんくらい。生活リズムが付かない月齢は世話も大変なので……」と付け足した。後ろめたさから、わざとらしく専門職を装った。
「たしかに。こういうのって、誰に向けて言ってるか分からないのに、自分が含まれているかのように感じるから不思議。……わたしは子どもいないけど」
おどけて見せる彼女に、わたしも硬い笑みを返す。ポイっとソファに投げ捨てられたスマホの画面は暗くなった。