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第95話:3人の訪問

 無理やり握らされた1万円札を見つめる。アンのことだけ気をかけていられるわけでもなかった。


 最近のまなべ精神科クリニックは、落ち着いていた。しかしわたしには、それが嵐の前の静けさにしか思えない直感があった。

 笹野さんのアニバーサリー反応には、本人もわたしも少しずつ慣れ始めていた。時間の経過をともに待つ仕事であると、彼女を見て実感する。

 一方で、ももさんの距離の詰め方に付かず離れずで過ごすことはいまだ難しい。彼女が、一度でも自分に興味関心が向いていないと思ってしまえば、また気を引くために過剰に甘えてきたり、自傷行為をしたりする。そして赤城さんはもう少しで退院だ。やっと病院の地域連携室から連絡があり、一定の治療効果は出たとして、一度自宅に戻るという話だった。

「赤城さんが戻ってきたら、ももさんはどこの枠で見ますか?」

 クリニックの休憩室で一緒になった院長に、わたしは今後について尋ねた。

「別の曜日に移すしかありませんが……瀬野さんが入れなくなりますから、少し悩んでいます」

 眞鍋院長は珍しく苦い表情をしていた。

「いいきっかけになると思ったのですが、聞いている限り、かなり瀬野さんの反応に左右されている様子です。前回の彼氏と別れたままだと思いますので、その影響もありそうですが」

 空いた枠に、わたしが入ったにすぎない。持ち回りの役目のようだった。アンのときと同じだ。――手近なものに縋りたい気持ちは分からないわけではないけれど。

「そうは言っても、赤城さんは戻ってきますから。あの方はむしろ常勤さん拒否なので、瀬野さんを外すわけにはいきません」

 訪問看護の受け入れ拒否は、患者さんの病状悪化や異常の発見が遅れることに繋がる。赤城さんのような完治がない疾患の患者さんでは、どうしても避けたいものだった。

 休憩室と思えないほど重苦しい空気が流れる。

 ようやく口を開いた眞鍋院長が出した決断は、わたしがももさん宅へ行く頻度を段階的に下げることだった。

「何も言わないでフェードアウトは一番よくないので、今日の訪問で、徐々にほかの看護師さんたちに変わることをお伝えしてみてください」

「わかりました。とりあえず、隔週のところを、月1でわたしとお伝えしようと思います。赤城さんの退院まで、ちょっとぎりぎりですけど」

「そうですね。少し重なってしまうと思いますので、植木さんの訪問時間の変更で対応してきましょう。」

 作戦会議を終え、わたしはももさん宅へ向かう。この道にも慣れてきたところだったが、訪問スケジュールの変更は珍しいことではないので仕方がない。


 マンションの部屋の玄関で出迎えてくれたももさんは、今日も「なっちゃん」と呼んでわたしにしっぽを振るようにまとわりついた。

 それをわたしは必要以上に微笑まず、丁寧に、まず一番初めに行うバイタルサイン測定をした。ももさんは腕を差し出す。

「ねえ、なっちゃん。昨日のドラマ見た?」

 血圧計が勢いよく音を立て始めた。「血圧を測ってる間はしゃべらないよう、お願いしますね」と軽く注意すると、そのときだけは大袈裟に口をつぐんで黙るのだった。

「訪問ですが、これからは太田さんたちがももさんを担当することになります。わたしはあと月1回で何度かお邪魔したら、バトンタッチです」

 ももさんの脇に挟んでいた体温計が、ピピピッと鳴る。すべてを終えてバイタルグッズを片付けながら、わたしは例の話を切り出した。

「ええー! 嫌なんだけど。なんで?」

「訪問スケジュールの都合で。すみません」

「他の家は別の人に行かせたらいいじゃん」

「そうもいかなくて」

 ももさんは駄々をこね始めた。――別の人を行かせればいい、向こうが時間を変えればいい、わたしの出勤日を増やせばいい。

 自分の望みに沿わせるように、周囲が変わることを求めた。


「ももえー、いるの? 入るよー?」

 インターフォンが鳴ることもなく、鍵をかけたはずの玄関のドアが開いた。女性の声がして、そのままこちらに足音が近づいてくる。

「いるよ。今、訪問看護中。なっちゃん来てるからあとにしてー!」

 ももさんはドアの向こうの声に、大声で返事をした。しかし足音はスピードを落とすことなく、わたしとももさんがいるリビングに近づいた。

 ドアが開き、壮年の女性がリビングで座るわたしたちを見た。

「あなたが『なっちゃん』ね。やっと会えた!」

 うふふ、と笑う女性は、ももさんのお母さんだった。美しい黒髪ストレートは、手入れをしているのが一目瞭然だ。このあたりの60代では珍しく奇抜なカラーの柄物の服を着て、痩せ気味の身体は余計に肌のシワに目を向かわせた。

「そう。でも、あと何回かで終わりなんだって。秋には、なっちゃんじゃない方の看護師さんたちしか来ないらしいよ」

 もうやめようかなー、と言ったももさんを、お母さんはたしなめた。

「なっちゃんじゃない看護師さんたちとも仲良くしなさい。治らないでしょ」

 お母さんは、終始うんざりした口調でももさんと話していた。あからさまな態度にも関わらず、ももさんはお母さんに食いかかることもせず静かに話を聞いている。

 わたしは簡単な挨拶をしたのち、最近の体調や気持ちの整理方法について、ももさんと振り返った。

 ももさんはお母さんがリビングにいるまま訪問を進めることをよしとしたが、どこか面白くない顔をしている。

「もしあれでしたら、お母さんからは後日お話を伺って、本日はいつも通りももさん個人と時間を取りたいと思うのですが、いかがしますか」

 ふたりにお伺いを立てると、真っ先に返事をしたのはお母さんの方だった。

「今は36歳で良い大人だけど、昔どんな子だったかお話してあげるから。知りたいでしょ? なっちゃんも」

 ええ、まあ、としぶしぶ相槌を打つと、お母さんはそのままリビングに居座り、ももさんの小さい頃の話をすると言い出した。しかし実際に聞かされたのは、育児中の苦労話だった。

 難産で、やっと生まれた子どもは妊婦健診で言われていた男の子ではなく女の子。事業をしている夫は育児をするわけもなく、苦労して育てたと話した。

「田中さんの話はしないの?」

 ももさんが言ったのは、昔いたお手伝いさんだという。

 名前を出すと、お母さんは田中さんについても話した。ももさんが生まれる前からいるお手伝いさんで、世話の一切を任せていたと。

 最初の話とは随分の変わりようだったが、お母さんは仕切りに「母親が自分らしくいること、が子どもにとっても一番だからね!」と話した。

 要所要所で言うその言葉が、どうしてもわたしには引っかかった。

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