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第94話:ここしかない者同士

「なんか悲しい。『ここしかない』って改めて言われると」

 言葉とは裏腹に、伸ばされた手を迷いなく取っていた。通り過ぎる風に季節の変わり目を感じる。

「こんなものが一番しっくり来るなんてね」

 アンも、握り返された力の違いに気づいたようだった。

「しばらくは、なびいてくれなそうですね」

 そう言って、彼は飲み終えたカップをゴミ箱に捨てる。返事はしなかった。

 そのまましばらく運河沿いの遊歩道を歩く。

 と、彼は確かにそう言った。やはり、彼にとってお母さんの存在は大きい。

 アルコール依存症の治療入院は、ふたりにとっていいきっかけだったのかもしれない。アンが自分の輪郭を鮮明に感じられれば、お母さんとのそれに違和感を持つことができる。お母さんの退院とどちらが早いかは分からないが、できる限り本来の彼を呼び起こし、亡霊を断ち切る力をつけさせたい。

 ……精神科は向いていない、少し仕事から離れろと言われたばかりなのに、こちらもしばらくできそうにない。

「なんだったらできるんだろう。今すぐ」

 横を歩くアンが、「ほら、また」と眉を挙げて笑う。

 数秒黙ると、彼は繋いでいた手をひょいと掲げた。

「今はこうして歩いてもらえたら」

 アンは、確かめるようにわたしの右手を握り直した。いっそう、わたしの手の形に沿ってゆく。その滑らかな過程を意識するたび、自分の心の揺らぎを感じずにはいられない。

「あ、いいですからね。いつ振り向いてくれても」

 性懲りも無くわたしがあれこれ弁明しようとすると、彼は「待ってます」とだけ言って微笑んだ。


 *


 アンがバーに出なくなり、10日ほどが過ぎた。

 主に香月さんとわたし、または香月さんと麗奈さんでシフトを回す。曜日によっては、香月さんひとりの日もあった。

 お酒を作れるのは香月さんだけだ。バーテンダーの仕事を一手に引き受けた香月さんだったが、なぜかアンの不在をひと言も話題に挙げなかった。


「あの夜、ふたりで何を話したんですか」

 2週目の終わり、思い切って香月さんに聞いてみた。わたしが酔って香月さんの自宅で休むことになった日、ふたりは話をしたと言っていた。

 不意打ちのような質問に、香月さんは戸惑っていたが、言葉を探しながら答えた。

「ん―・・、『気が済んだらいつでも戻ってこいよ』って言ったかな。だから、数日のうちに戻ってくると思うじゃん? それがあいつ、全然連絡寄越さないんだ。なに? なんで? まだ気が済んでないってこと?」

 香月さんは困惑している様子だった。あまり見ない顔をしていて、アンの行動が理解しかねる様子だった。

「瀬野ちゃんの方には連絡行ってない?」

 身体に雷が落ちたような衝撃のうちに、ぎこちない動きになる。

「……一度会いましたけど、そんなに落ち込んだ感じでもなかったですよ」

「へえ、会ってるんだ。俺を差し置いて」

 君たち、と香月さんは横目で見てくる。

「ただの経過観察ですよ」

「良いご身分だな、アンも」

 白々しすぎて、自分でも笑ってしまう。そのうちふたりでいるところを見られでもしたらお終いだ。香月さんには正直に話すべきだろうか。……でも、なにを?

「それでね、瀬野ちゃんに聞きたかったんだけど。俺から連絡すべき? ほら、スタッフが休んでるときは、あんまり上司から連絡しない方がいいって聞くじゃん。どうなのかなって」

 わたしは、ああ、と言ってから少し考えた。アンはそんなことを気にしないタイプに見える。上司という距離感で見ているかと言えば、それ自体がかなり危うい。

 しかし香月さんは、いつまでもひとつのグラスを拭いている。思いのほか長丁場になりそうな状況に、考え事をする時間が増え始めていた。

 先日は珍しく、グラスをシンクの縁にぶつけて飲み口を欠けさせた。少しでも欠けたグラスは、もうお客さんに出せない。捨てるしかない。全体が壊れたのも同然だった。

「大丈夫だと思いますけど、香月さんが気になるのであれば、一度わたしから聞いてみましょうか。実は週末会うんです」

 わたしは白状した。冷やかされると思って黙っていたが、今週末はアンとパワースポットでも巡ろうという話になっていた。何かに付け込まれる前に、信じるものを決めておきたいと言ったアンの考えだった。

「なんだよもう。おじさんだけ除け者かあ」

「香月さんも来ますか。行き先は寺社仏閣です」

「それって東京大神宮?」

「いいえ、厄払いで有名な阿佐ヶ谷神明宮です」

 なんだ、とにやつく香月さんの魂胆は見え透いたものだった。恋愛成就で有名な東京大神宮は、お参りした帰りに出会いがあったなんて逸話がごろごろ出てくる良縁の神社だ。一方で阿佐ヶ谷神明宮は、全国で唯一、八難除を謳う。「八」を厄の総数だと思っていたら、全方位という意味でしかなく、厄自体は何十個もあった。こんなに払うものがあっては、いつも何かの厄は憑いていそうだ。

「いいや、やめとく。アンに辞められたらここ持たないんでね」

 首をかしげるわたしに、香月さんは「これで何か食べて」と1万円札を手渡してきた。

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