「見て。あの子たち、やっぱり受験かな」
深いため息が右手から聞こえる。多少の後ろめたさを、わたしはレモネードで流し込んだ。
「素敵じゃない? 対等で、それでいて互いで事足りる」
いつから対等でいられなくなったのだろう。同じ立場で壁を乗り越える手段もあったはずなのに、大人になった途端にやり方すら忘れてしまった。
「一度、離れたらどうですか。向こうの仕事から」
わたしが、え? と聞き返すと、アンは「やっとこちらを向きましたね」とうんざりした口調で言った。
「瀬野さん、精神科向いてないですよ。経験を積めば積むほど、なんでも当てはめて考えていくんですか。もしかしたらそれも正しいのかもしれませんが、なんかある度に『ああ、こいつはこうなるな』『こうなったらもうだめだな』と思っては、がっかりしていくんですか」
言葉に詰まり、カップを握る手に力が入る。
「今のところは、もともと産休に入るひとの代わりで入ったの。たとえ向いてなくてもやらなきゃ。代わりもいないし」
「俺に言ったことと真逆」
ほんとだね、と笑っていると、アンはなおのこと面白くない顔をした。
なぜか自分だけは違うと思ってしまう。他人には休んでほしい、気分が晴れてほしいと教科書的な言葉をかける。それは純粋な善意、そして間違いなく本心であるものの、自分を勘定に入れないところでわたしは信頼を失ってしまうらしい。
彼に、職場の話をした。今いるところの価値を、少しでもわかってもらいたかった。
「針が刺せなかったら、ほかの科では働けない。精神科でも、病院だったら働けてないの。定期的に採血はあるし、点滴だって普通にある。今の『精神科訪問看護』だからどうにかなってるだけで」
訪問看護だって、精神科だけを扱うクリニックだから仕事になっている。これが、ターミナル期や難病などをみるところだったら、針刺し業務からは逃げられなかった。今いるのは、そんなニッチな条件が合致した奇特な場所なのだ。ここ以外、医療現場にしがみつきたいわたしに選択肢はない。未経験の新しい分野でも関係ない。だからこそ、勤務後に家で医学書を開く日々も苦ではなかった。
「瀬野さんは、ここまで逃げて来たと思ってる。お店で働くことはもっと
彼は静かにいらだち始めていた。そんなことないよ、と言っても、彼は聞き入れなかった。興奮に合わせ、ほんの少し声が張る。それでも、人流のある広い公園で、そんなことを気にしているのはわたしだけのようだった。
「ご覧の通り、俺は、専門的なことは何ひとつ分からないですよ。でも、瀬野さんが本命でない場所でも一生懸命働いているのは知ってる。なら、どこででも働けますよ。なんでそんなに医療現場に固執するんですか。やりたいことってひとつだけなんですか。二番目でも三番目でも、今までやれずに来たことをやればいいじゃないですか」
二番目、三番目という言葉にハッとした。まったく頭になかった。なんせ、仕事のことだ。大好きなチョコレートが食べられなくて、二番目に好きなクッキーでいい、なんて次元の話でない。
「アンは二番目、三番目にやりたい仕事ってあるの」
「え、そうですね。……考えたことはなかったですが」
ほれ見ろ、と目を見開いて唇を突き出した。嘘でも何か言えばいいのに、不愛想な顔で正直に話す彼が愛らしい。
「そう言えば今日ね、麗奈さんが『アンのきょうだいのようになってほしい』って言ってきたの」
比喩だと思うけどね、と苦笑いすると、アンも似たような表情をした。
「あの人、いつもズレてるんですよ。いい人ですけど、方向性が……。よく香月さんも一緒に居られますよ。それにお店にも、『Toute La Journée』なんて名前つけて。香月さんがあんなに働いている元凶ですから」
「なにそれ。初耳かもしれない」
初めて香月さんと会った日、お店の名前は「かみさんが付けた」と話していたのを思い出した。
「バーだけにしようって、俺何回も言ったんですよ。それなのに、『一日中、誰かの居場所があるといいよね』なんて嫁の言葉を真に受けて、カフェ&バーを続けてる。とんだ忠犬ですよ」
お客さんが少なくとも、香月さんが昼も夜もお店を開ける理由を悟る。言ってくれればいいのに、と思ったが、そんな話、彼は恥ずかしがってしないだろう。
「いいなあ。香月さん、優しいんだ」
うっとりとして頬を緩ませる。その横で、アンは理解できないというような顔をした。「女の人って、みんな忠犬が好きなんですか」と訝しげに言うので、「お嫁さんが名付けたお店を大事にしてるって、こんないい話ある?」と援護射撃をする。
麗奈さんくらい誰かに愛されることがあれば、針が刺せなくなったことも、どうでもいいと思えただろうか。
「でもね、麗奈さんの言うことも分からなくもないの。アンに兄弟がいれば、アンだけが背負い込むこともなかったし、お母さんもアンだけに寄りかからなかったんじゃないかな」
たらればですね、と切り捨てた彼に、ただの思い付きだと釘を刺してからひとつ提案をする。
「兄弟とは違うけど、社長さんをそういうポジションで見るのはどうなんだろう。お母さんの支えの、柱のひとつ」
「ああ、それもいいかもしれませんね。いまさら父親には思えませんし。幸い、向こうに任せるうちは金銭的な心配もいらない。……何より、母にとっても悪くないでしょうし」
突拍子もない提案をすんなり受け入れるアンは、やはり彼は香月さんの弟子だった。
「あとはアンだよね」
「俺ですか?」
「うん。急に役割の半分、とは言わないけど、半分の一かがなくなるって、喪失感があるでしょ」
わたしは、手持ち無沙汰になっていないかについてのみを、心配しているふりをした。余計なことを口走っては、彼を不快にしかねない。
「俺は全然大丈夫です。瀬野さんがいますし」
人の心配を他所に、彼はけろっとした表情で言った。
「わたし?」
「頑張りましょ。
アンは飲み終えたカップを持ってすっと立ち上がると、当たり前のように、わたしに左手を差し出した。