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第92話:眩しいレモネード

 月島長屋を抜け、わたしたちはふたたび電車に乗った。隣の豊洲駅へ向かう。

「豊洲公園は行ったことある? 川沿いの遊歩道も綺麗に整備されているから、どうかと思って」

 ひと駅だけの乗車時間は2分足らず。すぐに駅のホームへ降り立ち、地上を目指す。商業施設は今日もひとでごった返していた。

「ああ、知ってますよ。夜は缶チューハイ片手にたむろしてる人たちが結構いることろですね。……ほら、あの段差になっているところ、分かりますか」

 アンは苦笑いを浮かべながら、手を繋いでいない方の手を動かした。歩いていたビル間の歩道で、この先を指す。

「眺めがいいからかな」

 豊洲公園は、晴海運河を挟んで都内屈指のタワーマンションが軒を連ねる。それぞれのマンションが40~50階ほどはありそうだが、実際のところは知らない。わたしにとって、あれは東京タワーやスカイツリーと同じだった。

「でも実際、近所にあの眺めがあれば、俺も行くかもしれません。特に夜なんか」

 ひらけた場所に出ると、そこはもう公園の敷地だった。休日の昼間にレジャーシートを広げる子ども連れの近くで、キャンプ用品の少し高級な折りたたみチェアに座り、サングラスをかける30代カップルが雑誌を読んでいる。誰もが自由に、ゆったりと流れる晴海運河のたもとでくつろいでいた。

「意外。夜景なんて、小馬鹿にするタイプだと思ってた」

 人が住む明かりを楽しんでいるなんて、よく考えれば気味の悪い話だ。その明かりに何が照らされているかも知らず、手放しに「美しい」「きれい」と言う。

「この辺りの夜景は特に好きですよ。新宿とか池袋とかはうるさすぎる」

 広めに作られた板張りの階段にわたしを座らせると、「飲み物でも買って来ます」と言って、アンは公園に来ていたキッチンカーの方へ歩いて行った。

 ひとり取り残され、目の前の遊歩道を行く人たちを眺める。運河の水面は一定のリズムで上下した。そして対岸でも十分にその大きさを感じるタワーマンション群に目をやると、雲一つない夏の入口がすぐそこまで来ていた。来月には暑さに文句を言い始めている気がする。

 夏にはあまり良い思い出がない。


「瀬野さん」

 待っていた声に名前を呼ばれ、振り返る。両手には持つ透明カップには輪切りのレモンが沈んでいる。キッチンカーの横でなびくのぼりには、「Lemonade」と筆記体で書かれていた。

「こっちが炭酸なしで、こっちが炭酸ありです」

 どっちがいいですか、と言う彼に、どっちがいい? と返す。

「どちらでも。強いて言えば、炭酸?」

 面倒な顔をしない彼に安堵しながら、わたしは炭酸が入っていない方をもらった。

 なんでも把握しておきたい癖は、ひとを選ぶ。面倒だと嫌がる男がいれば、逆に楽だと言った男もいたことを思い出した。

「何にも知らないのよね、本当に」

 わたしが宙にこぼすと、アンは隣に座って言った。

「瀬野さんって、そういうところありますよね。自分の中で考えていたことの続きを急に口にする」

 ストローはすでにカップに刺さっていた。ひと足先に口をつけたアンは、すっぱい、と言うなり顔をしかめた。

「うそ。ごめん」

「いえ。でもほら、何にも知らないわけじゃない」

 彼は得意げな顔をして、それまで躊躇していた二口目のレモネードを吸うと、また性懲りも無く唇をすぼめた。

「分かってて行くなんて」

 ふふ、と笑うと、アンが噛み付いてきた。

「バカだと思うなら、瀬野さんだってバカじゃないですか。香月さんにも止められてたでしょ、俺のこと」

 不意打ちの指摘に、わたしまでストローからとっさに口を離す。

「わたしはですから」

「今日来てくれたじゃないですか」

「それはだって……」

 目の前をジョギングする男女が通りがかった。短パンに黒のインナーを来て、スポーツタイプのゴツゴツした腕時計をチラリと見る。

「だって? なんですか」

 この辺りのひとは、誰も周囲を気にしない。干渉せず、ただ自身の時間を過ごすのが上手だ。

「話を聞くと決めただけ。何がきっかけになるかわからないと思ったから。昨日も言ったでしょ」

 意味もなくカップの中でストローを回す。輪切りのレモンがかわした。

「患者と同列ですか」

「そうじゃないよ。わたしはアンに気付かされたから――」

 これ以上言い渋るわけにも行かず、わたしはアンに、手を握られた夜の気づきを話した。自分が針のことばかりを気にして、この数年、今を蔑ろにしてきた話だ。

 今日、彼の手を受け容れた。期待を持たせるだけかもしれない。ごっこ遊びに乗る自分の愚かさを、食事中も噛みしめていた。

 もしかすると、この引き戻してくれた手を自分は放したくないのかもしれない。

「なんですかそれ。人をショック療法みたいに」

 こっちだって大真面目です、と言うと、アンは勢いよく吹き出した。よほど意外だったのか、目尻に涙をうっすらにじませている。

「お言葉ですが、俺が大真面目に一歩踏み込んだとき、瀬野さんは俺のことなんかまったく考えていなかったと。そういうことですよね。可哀想だと思いませんか。俺、頑張ったのに」

 アンが指で目じりを拭う。そのもと、二段下の段差に、高校生くらいの学生たちが座った。手には同じキッチンカーのレモネードが握られている。

「酔いに任せただけのくせに」

「今日は酔ってませんね」

 軽いタッチの小競り合いをいくつも重ねながら、わたしは逃げ回った。


 女の子が二人分の飲み物を持ち、男の子がリュックからノートを取り出した。付箋がいくつも飛び出しているのが見える。ノートの表紙に書かれているのは「〇〇模試直し」という文字。今年受験なのかと勘繰っては、ひそかにエールを送る。

 一方で、アンはわたしばかりを見ていた。痛いほどに視線を感じ、わたしはこうして学生たちを眺めている。

「もういい加減、折れてください」

 レモネードを渡す女の子が微笑んだ。それを受け取る男の子の瞳は眩しい。

 わたしたちはこんな関係になれるだろうか。

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