安易に「お母さん」と言う言葉を使いたくなかった。彼が気分を害するのは目に見えているし、「少し離れたら」とすすめる度に思い出させるなんて馬鹿馬鹿しい。口ごもっていると、アンはわたしの右手を取った。
「じゃあ、しばらく悩んでてください」
そうして、待ち合わせた駅の改札へ向かう。
「いや、なに……これは」
「だめですか」
アンは当たり前のようにわたしの右手を取っていた。
わたしが「なんで良いわけあるのよ」とごねていると、彼は「
乗った電車は、東京の中心部から外れていく。有楽町線で辿りついたのは、月島駅だった。地下道から階段を上がり、地上に出る。もんじゃストリートは、大きなキャリーケースを持つ外国人観光客や、若者、ファミリー層で賑わっていた。開店して間もない店内は一巡目のお客で大方埋まっている。外には椅子が出され、順番待ちが絶えないもんじゃ屋が何軒か見えた。
「もんじゃ食べませんか。若者のデートっぽくていい」
デートじゃない、と釘を刺すも、聞く耳を持たないアンは、軒先に出ているメニュー表を見ながら他愛もない話をしてきた。海鮮が人気らしいですよ、お好み焼きは豚玉がいいですよね、といつになく喋った。バーで働いているときの彼は、香月さんのように愛想よく話す方ではなかった。とりあえずの愛想を向ける程度で、お客さんの会話に入ることもほとんどない。
「瀬野さん、アレルギーはありますか」
「ないよ。なんでも食べれる」
「じゃあ、もんじゃは海鮮にしましょう。もうひとつはお好み焼きにして、味は――
この手を振り払わないでいることが良くない。右手は温かく、一回りも二回りも大きい手に心を許している。指の間にアンの長い指が入り込んで、指腹が優しくわたしの甲に沿う。
あまり長く振れていると、自分が彼の大事なもののように思えてしまいそうで、わたしは目に付いたお店に入ることを提案した。
彼と食事をするのは、家に泊った日以来だった。すぐにもんじゃの具材がやってくる。店員の男性が、着いたテーブル席の鉄板で、もんじゃの作り方を披露する。土手を作り、ボウルに残った出汁を中央に溢れないように注いでいく。
「お好み焼きはいかがしますか。向こうで焼いてご提供もできますよ」
目の前の鉄板は、もんじゃが大部分を占めている。わたしたちは、店員の男性の言葉に甘えることにした。
徐々に火が通っていくもんじゃからは、粘り気が出てきた。一部はもうぱりっと焼けている。
「そっちの方、もう食べれると思う。お先にどうぞ」
テーブルを挟んで対面するように座ったわたしは、アン側の鉄板の方面を指差した。火力の差で、どうしても水分の飛び具合に差が出てしまう。
「待ってますよ」
「ううん、いいの。焦げたら大変だし」
わたしに急かされ、アンはテーブルの隅に重ねられていた小さいへらを持った。
「……いただきます」
そう言うと、彼はこちらをちらりと見た。わたしが驚いていることに気づいていた。
「言うようにしたんだ……?」
恐る恐る、彼の視線に返事をする。
「今までも言いはしてましたよ。誰かに向けてではなかっただけで」
今はもう、誰かに向けて言うようになった。そう聞こえる。
アンは、柔らかな表情でもんじゃをすくった。小さなへらを握る大きな手を見て、思わず目をそらした。
何でも器用にこなす印象があったが、よく見ると、彼はどこか愛情を受け取ることが苦手だった。気づかなかった、知らなかった、と言っては、ひとつひとつに丁寧に驚く。
オオカミに育てられたわけじゃあるまいし、と思う。オオカミだってもっと愛情を注ぐだろう。共通言語を持つ人間同士で、そんなにも通わないもだろうか。わたしには想像もつかない。
ふと、彼の言動には想定されるほどの情が含まれていない可能性に気づいた。香月さんを始めとした周囲の他人から学び取った所作を再現しているにすぎない。
気持ちが先行して言動につながることはどれくらいあるのだろうか。考えれば考えるほど疑心暗鬼になった。
後からやってきたお好み焼きを、アンがわたしに取り分ける。
「熱いので気をつけてください」
「うん、ありがとう」
アンは、小さなお礼にすら笑みをこぼすようになっていた。もんじゃの方が好きだとか、お好み焼きは年に数えるくらいしか食べないとか、熱いものが食べられる温度になるまで取り留めのない話をした。さっさと食べ終えてしまう彼に、熱々の鉄板料理はちょうどよかった。
家にホットプレートがあることを伝えると、「じゃあ、もんじゃがいいです」と当たり前のように言ってくる。
食事を終えてお店を出ると、のれんを超えた先で自然と手を繋がれる。握り返すことを数秒だけ躊躇した。
「少し辺りを見ながら、駅の方面に戻りますか」
大通りをわざと逸れ、民家と居酒屋が立ち並ぶ小道を歩いた。左右には古い街並みが続く。木造の月島長屋は、江戸から大正にかけての歴史を感じさせる。トタンや木で作られた軒下には、年季の入った木枠の窓があり、擦りガラスからはコップや洗剤らしきものが透けている。ここではまだ誰かが生活を営んでいる。
外に置かれた植木鉢は低木も多い。観光客が通りがかるせいかもしれない。名前の知らない花が顔を見せ、家々の距離は近い。
「火事が起きたら一発ですね、こんなに家同士が近いと」
アンがぼそりとつぶやいた。
昔からある建物は、建築基準法や消防法の範囲外だ。既存不適格建築物として存続を許されはするものの、火事が起きればひとたまりもない。
「巻き込まれないように、後付けの防火対策はするらしいよ。火災報知器つけたり、不燃材使ったり」
「でもたかが知れてる」
ちょっと、とアンを睨む。周囲を見渡し、住民らしきひとがいないことをそっと確認する。
すっぱりと切り捨てる言い草は、始めて会ったときから変わらない。初対面の人間に、「就活は上手くいかなかったんですね」などと言い切る男は彼くらいだ。危なっかしくて、ひやひやする。
建物だとこんなにもはっきり危なっかしさが分かるのに、どうして人間同士では近づきすぎたことに気づかないのだろう。
「建て替えになるときは現行の法律の適用だから、この並びば今だけのものかな」
わたしは近くに掲示された長屋保存会のチラシを指差した。アンは立ち止まってまじまじと文章を読むと、「どのみち、死にゆくわけですね」と言った。
「嫌だなあ、もう。『生まれ変わる』とか言えないの?」
眉間に皺を寄せて諭すわたしに、アンは「瀬野さんはそういう人でしたね」と控えめに笑った。