驚いて何も言えないでいると、麗奈さんは構うことなく話を続けた。
「アンくん、昔から雅也に懐いてるんだけど、やっぱり年が離れすぎているし、兄弟というか子弟なのよね、結局。仕事上の関係もあるし。ふたりの関係もいいんだけど、もっと近い、フランクな関係性が彼にあればいいなって思っていたの。夏希ちゃん、彼とこんなに年が近いなんて、かなり理想的!」
興奮気味に話す彼女に気押される。香月さんが言っていた、麗奈さんがいやに店の手伝いに乗り気だったわけを理解した。
「わたしも、彼の近くに誰かいてほしいとは思っています」
仮にアンが兄弟を欲したとしても、わたしにその役割を求めないのではないか。
それに、事実、お母さんの件に向き合えるのは彼だけで、わたしが何か手続きを取って代わることはできない。いつも話を聞くこと、そして彼が休みたいときに休める場所を作ることが、わたしにできる
「瀬野ちゃんは真面目さんかあ」
明言を避けるわたしを、麗奈さんは必要以上に追いかけなかった。この辺りの感覚は、香月さんに似ている気がする。
「まあ、『兄弟』っていうのはひとつの表現なんだけどね。アンくん、なんか休み取るみたいだし、ちょうどいいと思ったの。バーのシフトは気にしないで。昔からわたしもちょこちょこ手伝ってて、勝手は分かるから」
アンくんをお願いね、と飛び出た後れ毛を耳にかけながら麗奈さんは言った。
香月さん宅を出ると、知らない道に通りで地図アプリを開いた。GPSが指し示す位置を確認すると、本当にお店のすぐ近くだった。
わたしはアンに、メッセージを打った。昨晩のお礼と、香月さんが気を利かせて今日昼のシフトを変わってくれたこと、そして、今度気晴らしにどこか付き合うよ、という旨の文章を送る。そしてふたたび地図アプリを開き、駅までの道を調べ直す。
通ったことはない道だったが、お店と距離が近いこともあり、さほど難しくはなかった。
わたしは、地図の案内に従って歩き出した。ふたつほど曲がれば、あとは知った道に出る。そこまではと、スマホの地図アプリを開いたままにしていると、画面が変わった。
――着信:
電話の音楽が一音遅れて鳴り始める。わたしは一呼吸置いてから、画面をタップする。軽い挨拶を済ませ、昨日のお礼をまた伝えた。アンは、「体調は」とだけ聞いてきた。
「体調の方は大丈夫だよ。本当は今日もお昼出れたくらいで……」
わたしは無くなってしまった地図を思い出しながら、駅の方向へ足を進めた。
「じゃあ今日がいいです」
「今日?」
「だめですか」
アンは平坦な声でねだった。電話で見えない表情は、うまく想像できない。懐かない猫のような彼。これでも精一杯、喉を鳴らしているのかもしれない。
「いいよ。どこに行きたい? 一度家に帰って準備したら、向かうよ」
アンは、「行きたいところ……」とつぶやいたきり、黙ってしまった。電話口は、唸りもしない、まったくの無音だった。
「どこでもいいよ。特別行きたい場所が思いつかないなら、散歩でもいいし」
10時に駅で、と伝えると、アンはやっと返事をした。
待ち合わせ時刻、背の高いアンがいることはすぐに分かった。ライトベージュのシャツを羽織り、同系色のスラックスに黒いローファーを合わせている。
アンはわたしを見ると、どこか分の悪い顔をして会釈をした。二、三、言葉を交わし、いざこれから行く場所を決めるという場面になると、彼はより一層表情を硬くした。
「本当にどこでもいいんだよ。極端に言えば、海、山。現実的には……おいしい食べ物とか、買わないといけなかったものを買いに行くとか。とにかく思いつくもの、何かないの」
わたしが細かに聞けば聞くほど、彼は難しい顔をして困るのだった。
考えなしに、海、山、と挙げたわけではない。自然の雄大さを感じて、自分の悩みがちっぽけに感じることはよくある。どうでもいいと思えることが、気を確かにするためには思いのほか重要だったりする。
アンに海派か山派かを訪ねると、どちらでもないと帰ってきた。
「困ったなあ。どこにしよう。悩むな」
わたしが頭を抱えていると、アンは先ほどまでのぎこちなさもなく言った。
「瀬野さんだけですよ。俺は何も困ってないし、そもそも悩んでない。海も山も行かなくて大丈夫です」
アンは自分の首に手をかけ、今が一番困っていると言いたげな顔をする。唇を片一方の口角に寄せるように引いていた。
「悩んでない、はさすがに」
「いえ、本当です。母は入院中ですから。休戦です。母だけでなく社長まで出てきた以上、ひとりで考えて何になるんですか」
まあ、そうなんだけど……、とまごつく。彼の言い分はもっともだった。ただ、わたしが気になって仕方がないのは、そこではない。
「それに、瀬野さんのことだって、冷静に考えても――」
「ああ! だめだめ、そこまで。……そうだ、今日は、
わたしは慌ててその場を取りなすと、アンは変えた話に乗ってきた。
「自分がいなくても回るって、あの話ですか」
「そう」
「普通、自分が必要とされる場所を探しません? 自分がいなくてもどうにでもなるって、知りたいですか。瀬野さんは」
彼に降りかかる責任が、何も悪さをしなければいい。自分しかできない、辞められない、抜けられないと思うえば思うほど、休みなく動いているはずの身体に相反して、頭は身動きが取れなくなってゆく。そのうちに、この苦しみに歪んだ意味を見出し始める。
「なんて言ったらいいのかな」
わたしは目の前の駅に吸い込まれていく人々に視線をやりながら、頭を悩ませた。