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第90話:キョウダイ

 驚いて何も言えないでいると、麗奈さんは構うことなく話を続けた。

「アンくん、昔から雅也に懐いてるんだけど、やっぱり年が離れすぎているし、兄弟というか子弟なのよね、結局。仕事上の関係もあるし。ふたりの関係もいいんだけど、もっと近い、フランクな関係性が彼にあればいいなって思っていたの。夏希ちゃん、彼とこんなに年が近いなんて、かなり理想的!」

 興奮気味に話す彼女に気押される。香月さんが言っていた、麗奈さんがいやに店の手伝いに乗り気だったわけを理解した。

「わたしも、彼の近くに誰かいてほしいとは思っています」

 仮にアンが兄弟を欲したとしても、わたしにその役割を求めないのではないか。

 それに、事実、お母さんの件に向き合えるのは彼だけで、わたしが何か手続きを取って代わることはできない。いつも話を聞くこと、そして彼が休みたいときに休める場所を作ることが、わたしにできることだった。

「瀬野ちゃんは真面目さんかあ」

 明言を避けるわたしを、麗奈さんは必要以上に追いかけなかった。この辺りの感覚は、香月さんに似ている気がする。

「まあ、『兄弟』っていうのはひとつの表現なんだけどね。アンくん、なんか休み取るみたいだし、ちょうどいいと思ったの。バーのシフトは気にしないで。昔からわたしもちょこちょこ手伝ってて、勝手は分かるから」

 アンくんをお願いね、と飛び出た後れ毛を耳にかけながら麗奈さんは言った。



 香月さん宅を出ると、知らない道に通りで地図アプリを開いた。GPSが指し示す位置を確認すると、本当にお店のすぐ近くだった。

 わたしはアンに、メッセージを打った。昨晩のお礼と、香月さんが気を利かせて今日昼のシフトを変わってくれたこと、そして、今度気晴らしにどこか付き合うよ、という旨の文章を送る。そしてふたたび地図アプリを開き、駅までの道を調べ直す。

 通ったことはない道だったが、お店と距離が近いこともあり、さほど難しくはなかった。

 わたしは、地図の案内に従って歩き出した。ふたつほど曲がれば、あとは知った道に出る。そこまではと、スマホの地図アプリを開いたままにしていると、画面が変わった。

――着信:代家しろいえ アン

 電話の音楽が一音遅れて鳴り始める。わたしは一呼吸置いてから、画面をタップする。軽い挨拶を済ませ、昨日のお礼をまた伝えた。アンは、「体調は」とだけ聞いてきた。

「体調の方は大丈夫だよ。本当は今日もお昼出れたくらいで……」

 わたしは無くなってしまった地図を思い出しながら、駅の方向へ足を進めた。

「じゃあ今日がいいです」

「今日?」

「だめですか」

 アンは平坦な声でねだった。電話で見えない表情は、うまく想像できない。懐かない猫のような彼。これでも精一杯、喉を鳴らしているのかもしれない。

「いいよ。どこに行きたい? 一度家に帰って準備したら、向かうよ」

 アンは、「行きたいところ……」とつぶやいたきり、黙ってしまった。電話口は、唸りもしない、まったくの無音だった。

「どこでもいいよ。特別行きたい場所が思いつかないなら、散歩でもいいし」

 10時に駅で、と伝えると、アンはやっと返事をした。


 待ち合わせ時刻、背の高いアンがいることはすぐに分かった。ライトベージュのシャツを羽織り、同系色のスラックスに黒いローファーを合わせている。

 アンはわたしを見ると、どこか分の悪い顔をして会釈をした。二、三、言葉を交わし、いざこれから行く場所を決めるという場面になると、彼はより一層表情を硬くした。

「本当にどこでもいいんだよ。極端に言えば、海、山。現実的には……おいしい食べ物とか、買わないといけなかったものを買いに行くとか。とにかく思いつくもの、何かないの」

 わたしが細かに聞けば聞くほど、彼は難しい顔をして困るのだった。

 考えなしに、海、山、と挙げたわけではない。自然の雄大さを感じて、自分の悩みがちっぽけに感じることはよくある。どうでもいいと思えることが、気を確かにするためには思いのほか重要だったりする。

 アンに海派か山派かを訪ねると、どちらでもないと帰ってきた。

「困ったなあ。どこにしよう。悩むな」

 わたしが頭を抱えていると、アンは先ほどまでのぎこちなさもなく言った。

「瀬野さんだけですよ。俺は何も困ってないし、そもそも悩んでない。海も山も行かなくて大丈夫です」

 アンは自分の首に手をかけ、今が一番困っていると言いたげな顔をする。唇を片一方の口角に寄せるように引いていた。

「悩んでない、はさすがに」

「いえ、本当です。母は入院中ですから。休戦です。母だけでなく社長まで出てきた以上、ひとりで考えて何になるんですか」

 まあ、そうなんだけど……、とまごつく。彼の言い分はもっともだった。ただ、わたしが気になって仕方がないのは、そこではない。

「それに、瀬野さんのことだって、冷静に考えても――」

「ああ! だめだめ、そこまで。……そうだ、今日は、!」

 わたしは慌ててその場を取りなすと、アンは変えた話に乗ってきた。

「自分がいなくても回るって、あの話ですか」

「そう」

「普通、自分が必要とされる場所を探しません? 自分がいなくてもどうにでもなるって、知りたいですか。瀬野さんは」

 彼に降りかかる責任が、何も悪さをしなければいい。自分しかできない、辞められない、抜けられないと思うえば思うほど、休みなく動いているはずの身体に相反して、頭は身動きが取れなくなってゆく。そのうちに、この苦しみに歪んだ意味を見出し始める。

「なんて言ったらいいのかな」

 わたしは目の前の駅に吸い込まれていく人々に視線をやりながら、頭を悩ませた。

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