いつ間にか寝ていたようで、自分の身体が柔らかいものの上にあることに気づき、飛び起きた。
「あ、大丈夫? 今、お茶でも持ってくるね」
綺麗な女性がわたしを見るなり立ち上がる。見覚えのない部屋だった。どうやらわたしはソファに寝ていたようで、目の前のテーブルには雑誌やスマホが雑多に置かれている。
女性は部屋のドアを開けるなり、「まさやー!」と大きな声で叫んだ。長い髪をバレッタで留めるミルクティーベージュの髪色をした女性は、黒いセットアップの部屋着を着ていた。腕まくりをした細い腕が、わたしにグラスを手渡す。
「すみません、わたし……」
頭の重たい痛みを感じながら、目の前の女性に話しかける。
まさや、と呼んだということは、香月さんの家だ。そうなれば、目の前の美しい女性は香月さんの奥さんだろうか。30代半ばのように見える。スレンダーな身のこなしは、モデルのようだった。
「瀬野ちゃん、大丈夫~?」
そこに聞き覚えのある男声が、ドアを開けて入ってきた。スウェットを着た香月さんだった。
わたしは急いで立ち上がり、ふたりに向かって平謝りする。時刻は朝の8時。どうやら昨晩は香月さんの家で寝てしまったようだった。
必死に昨日を思い出す。昨晩はアンが休みで、代わりに閉店までのシフトだった。すでに日付は変わっていた。閉店間際にアンがやってきて、社長さんの話をして――
「アンがバーに連れ戻ってきたんだよ。そのままふたりで俺んちに運んでさ」
香月さんはソファの横に立ち、わたしに昨日の終わりを聞かせる。
「甘いお酒は気を付けて。飲みやすさとアルコール度数は比例しないんだ。実はそこが危険だったりね」
まず飲んで走っちゃだめだよ、と呆れるように笑う香月さんに、わたしは情けなく頭を下げた。
「いいのいいの。それに、瀬野ちゃんを運ぶ用事ができたおかげで、昨日のうちにアンと話ができたよ。ありがとう」
香月さんは、わたしに礼を述べた。あまりにも穏やかに微笑むので、わたしはふたりが仲直りできたのだと思った。しかし、アンの出勤について聞くと、今月は出ないままだった。
この人たちは何を話したのか。
ぼんやりとしていた頭もすっかり意識を取り戻し、わたしは香月さんに矢継ぎ早に問いかける。
アンの長期休みは、「人生の夏休み」と称された。ふざけている様子もない香月さんに、わたしはより一層困惑する。大学生の夏休みでしか聞いたことがない。
「アンの分のシフトはこっちでどうにかするから気にしなくていいよ。麗奈もたまに出てくれることになったから。なんだか妙に乗り気なんだよ、麗奈のヤツ」
リビングの美人は、麗奈と言った。誰も説明してくれないが、香月さんのお嫁さんらしかった。
「まあ、そんなわけで、もしかして瀬野ちゃんにもお願いする日があるかもしれないけど、数日かな」
「分かりました。いつでも言ってくださいね」
「ありがとう。……ああ、そうだ。今日のランチは代わりに出るからいいよ。11時から行くから俺はまた寝るけど、今日は麗奈も家にいるし、テキトーにゆっくりしてって」
じゃあ、と言って、香月さんは再びリビングを出て行った。
カフェタイムの仕事がなくなり、1日休みになった。昼のシフトに出れないほどではなかったが、今日は甘えることにした。
「ご迷惑をおかけしました。夜中にすみません……」
わたしは、リビングにともに取り残された女性に声をかけた。お店が終わってからこの家に来たとすれば、2時を過ぎているはずだ。その時間に香月さんとアンと3人でバタバタ家に入られては、堪ったものではない。
「それは全然! だって、雅也が作ったんでしょ? それにアンくんもね、何度か潰れてこの家に泊ってるの。ぜーんぶ雅也が悪いのよ」
勝気に笑い飛ばす彼女は、アンのことを「アンくん」と呼んだ。
それは初めてアンに会った日、一度だけ読んだ名前だった。すぐに「アンでいい」と言われ、今では何の気なしに呼び捨てにしている。時間の経過を感じた。しかし、よくよく考えると半年に満たない。バーは基本週2回しか入らない。
彼の何を知っている気になっていたのか、考えれば考えるほど分からなくなった。
「そう言えばアンくんが、『起きたら連絡して』って。心配してたよ」
うふふ、と彼女は涼し気に口元を隠した。
「アン、昨日なんか言ってました?」
「いいえ、なにも。雅也がいたからかな」
香月さんは最近のアンについて、麗奈さんに何も話していないのだろうか。あっけらかんとした彼女の態度は、本当に何も知らないようだった。
「夏希ちゃんの方がお姉さんなんでしょ?」
「はい、1歳だけ」
そう言えば28歳の誕生日が迫っていた。アンの誕生日はいつだろう。やはり、わたしは彼をよく知らない。
「アンくん、兄弟がいたらよかったのよね。お母さんのいざこざも、ひとりで対処してきて……ちょっとお利口さんすぎ。わたしは上にも下にも兄弟がいるから、なんとなくわかるんだけどね。やっぱり兄弟がいたら親の注意も期待も分散するし、子が持つ責任も、ね」
「兄弟ですか。考えたことがなかったです。でも、そうですね。わたしもちょうど彼の様子が気になっていたところで――」
わたしが最近の彼の様子を話そうとしたところ、麗奈さんは急に両手でわたしの手を掴み、胸元で祈るように言った。
「それをね、夏希ちゃんにぜひ頼みたいの。お願い!」