「しつこいよ、お前」
「香月さんには言ってませんから」
険悪な雰囲気がフロアを包む。珍しく睨みをきかせる香月さんに、アンは素知らぬふりをして答えた。
「しばらく休め。1週間とか。2週間でもいい。その執着どうにかしてこい」
厳しく出た香月さんに、アンは涼しい顔をして答えた。
「じゃあ今月いっぱいお休みいただきます。いいですよね? もう瀬野さんもいますし。俺がいなくたって、今日みたいに回せるでしょ」
まだ新しい月が始まったばかりだ。3週間以上は残っている。香月さんはさすがに表情を曇らせたが、彼を止めることまではしなかった。
それを見て、アンはさっさと店を出て行ってしまった。
「ああ、ちょっと」
ぶら下がるバンブーチャイムだけがゆらゆらと悲しい音を立てる。
「いいよ、追いかけなくて。あいつは少し頭冷やした方がいい」
ドアは一度閉まってしまえば、向こうの音は聞こえない。アンがどんな背中をしているのかも、分かりようがなかった。
「ここまでなくなったら、アンはどこにいたらいいんですか」
香月さんの困り顔に気づきながらも、わたしは急いでエプロンを脱いだ。すぐ戻ります、とだけ言って、アンを追いかける。
お店を出て、螺旋階段を勢いよく駆け上がった。
通りを見渡すと、すでに小さくなりつつあるアンの背中を見つけた。精一杯の大な声で彼の名を呼ぶ。すると、すぐに振り返り、辺りを見渡す。いくらもせず、彼はわたしを見つけた。
「夜ですよ」
わたしが追い付くのを、彼は迷惑そうに待った。
息が切れる。不規則に乱れた呼吸を、一生懸命元のリズムに近づける。わたしが呼吸を整えるまで、アンは何も言わなかった。
「……なんで乗っかっちゃうのよ。香月さんは、少し冷静になれって意味でしか言ってなかったじゃない」
まだ乱れている。その合間に、わたしは言葉を忍ばせた。香月さんの意図が伝わっていないとは思わない。ただ、あの場で切り捨てるような振る舞いをしたアンが気になった。
「分かってますよ。でもなんだかどうでもよくなっちゃって」
「どうして」
「瀬野さんならわかるんじゃないですか」
すれ違うカップルが、わたしたちの方を見た。ひそひそと話しながら通り過ぎていく。アンは静かに取り乱し、わたしはバッグもスマホも持たない身ひとつで立っている。彼らの話す内容は想像に難くない。だが今のアンに周囲の視線は刺さらない。
夜も更けた通りに、お酒が入ったサラリーマンが互いに絡む大きな声が響いた。その少し後ろを、壮年の男性と派手な格好の若い女性が道を横切っていく。
わたしは左肘が丸見えになるほど服をまくり上げ、彼の前に突き出した。案の定、彼は「なんなんですか」とたじろいだ。
「もうない」
「なにが」
「傷」
わたしは、あの日の採血で刺されたあたりを彼に見せた。今では、針の刺し傷どころか、内出血すら綺麗さっぱりなくなっている。当たり前だ。針で刺した穴はとても小さい。数分で塞がって、どこが刺されたのかさえ分からなくなる。それに、内出血になっても、せいぜい2~3週間あれば大方消えてなくなる。もう1年半が経とうとしている今、何もあるはずがなかった。
アンは、どこか気まずそうにこちらを見ていた。
ひとを落ち着かせるには、待つことが何より大事だ。けれども自分自身はどこか短気で、溺れている人を殴って黙らせるような一面が昔からある。水の中で溺れ、どちらも助からないと思えば、一思いにやってしまう性分だった。後付けしたエビデンスある知識に忠実になれない危うさを今でも感じていて、病院や訪問では決してやらないふるまいを、つい彼の前ではしてしまう。
「でもこんなありさま。分かる?」
「……全然。何が言いたいのかさっぱりです」
不満げな表情を向けながらも、先ほどのように飛び掛からないアンを見て、人知れず自分のずるさを再認識する。
「見えるところが治ったって意味ないってこと。……それに、話さないと分からない。心のうちなんて、誰にも分からないんだよ。すぐ分かるなら医者だって、わたしみたいなひとだって要らないわけで――」
まったく効果的でない理責め。業務中は絶対にしない。わたしもまた、どこか取り乱していて、自分が何に慌てふためいているのかを考えながら彼と向き合う。
「そうですね。でも少しは分かってるんですよ。その上で、どうにもいかないんです」
わたしは頷きながら彼の話を聞いた。痛いほど分かる。原因は明確に思えるのに、永遠と囚われ続ける。根の問題がそれだけでないということなのか、助かろうとする手段が間違っているのかも分からないまま、抜け出せない絶望の中で生きていく。
「だから、たくさん話して。関係ないことも、全部」
わたしは、アンの休日に付き合うことを決めた。外出するでもしないでもいい。家でくつろいでいるとき、外で何かを見聞きし心動かされたとき、ふと問題の本質が顔を出す気がした。――アンに手を握られた夜、今を蔑ろにしてきたことに気づいたわたしのように。
アンはわたしの申し出に驚いていたが、ふざけたことを言ってじゃれ合う余裕もなく、短い返事をするだけだった。
拗らせたトラウマを自分の手札として使う。どこか、ひとつ巡り終わったような、そんな生まれ変わりの瞬間だった。
ひと段落着きそうだと思ったとき、気が抜けたせいか、自分の中の変化を感じた。平衡感覚を失い、ふわりと何かが身体の中を回る。
「うわ……ちょっと気持ち悪い、……かもしれない」
走ったせいか大きく酔いが回っていた。気づいたときにはもう立っていられなかった。
「大丈夫ですか。……あ、ちょっと!」
しゃがみこもうとしたとき、アンがわたしの腕を支えた。口は回るのに、身体が言うことを聞かなくなっていた。