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第86話:社長さん

 二言目が出なかった。年齢、容姿、話しぶり、態度、……気になることは山ほどあったが、ひとつ聞いてしまえば、五月雨式にあれこれ聞いてしまいそうだった。

「お見舞いは」

「たまに行くと言ってました」

「へえ」

 アンは、「へえ、って」と苦笑いを浮かべる。一方で香月さんは、そんなわたしたちを見て意味ありげに黙っている。

 堪り兼ねて、アンがひとりでに話し始めた。

 会社経営者の男性で、清潔感のある穏やかな人だと言う。アンと同じくらいの一人娘がいるが、それもすでに独立して家を出た。奥さんを早くに亡くしており、現在は広い一軒家にひとりで暮らしている。――アンのお母さんがいない日は。

 社長本人は実直で、アンのお母さんからは絶対に聞けなかったであろう、ふたりの馴れ初めやこれまでの飲酒歴などを聞いたと言う。

「もう付き合いはかなり長いみたいで。そうは言っても、くっついたり離れたり。お酒もそのうちに、という感じらしいです。瀬野さんが言ってたように、長い時間をかけてああなっていったと」

 わざと視線を外しているのが分かった。彼の顔を見ると、苛立ちと困惑がうつる。「親だからって何でも分かるわけじゃないよ」と囁くと、彼は「分かってますよ」と硬い表情を変えずに答えた。

 徐々に増える飲酒量は、社長の家で過ごすことで可能になっていた。社長はアンに責任を感じて今日会う時間を作ったらしい。

 アンは、社長からもらった手土産のお菓子をおもむろにカウンターで開け始めた。薄桃色と水色が混ざる和紙の綺麗な包み紙をビリビリと破る。現れた白い上品な箱をゆっくり開けると、金平糖と焼き菓子が入っていた。

 淡い色の金平糖が入った三角形の子袋を、アンはひとりひとつ手渡した。わたしは黙って見惚れて、香月さんが「上品だねえ。どこで売ってんだろ」とつまむようにして首をかしげる。金平糖がもてはやされればされるほど、アンの機嫌はどんどん悪くなっていった。


「――で、そのうち、社長とお酒の量の話で揉めて。母が社長を一発ぶん殴り、受診相談になった流れです」

 持っていたグラスに、何度もアンは口を付けた。でもあれは一発じゃないと思いますね、と笑う姿が痛々しい。

「ヤバイ人じゃなくてよかったじゃん。ホストとかやーさんとかさあ」

 そう言って、いよいよ香月さんもカウンターのイスに座り始める。閉店時刻も近づいていた。もう今夜はお開きだ。お店のドアにかけた「open」の掛け看板をひっくり返してこようと、わたしはカウンターを出る。

「そりゃそうですけど……でも、なんか」

「なんか?」

 香月さんの聞き返す声に、アンは答えなかった。黙りこくったまま、時折、ぎこちなく唇を引いた。

 話し込むふたりの後ろを通り、ドアへ向かう。アンが何か言い出すことを渋るように唇を触ったのが見えた。

「……入院費はあっちが持つって」

「よかったじゃん。ああいうのは差額ベッド代だ食費だって、馬鹿にならないからなあ」

 腕組みをして香月さんは首を大きく縦に振った。

「それだけじゃない。俺にも支援するって。……必要なら」

「支援って何を?」

「これまで働いて家にお金を工面してきたから、だそうです。……でも俺、もう27ですよ? いまさらお金もらったところで、何に使えっていうんですか」

 学生でもないのに、とアンは捨てるように言った。

「えー、そんなんいくらでもあるでしょ。良いところに住むとか? 海外旅行に行くとか?」

 あれこれと想像してはニヤつく香月さんを尻目に、アンはイライラを募らせた。またお酒を一口含む。お酒を飲んでいるというより、何か喉のつっかえているものをさらに奥に流し込もうとしているようにも見えた。

 わたしはドアの外に掛けたボードを「closed」にひっくり返すと、すぐにフロアに戻り、アンの隣の席に腰を下ろした。

「自分のお母さんだもんね」

 そう言うと、アンは驚いた様子でわたしを見た。ぎょっとしたようにその二重の大きな目を見開く。

「……別に」

 取り繕うように、平静を装う。

「それにあの人は、もう社長とやっていきたいんですよ。入院書類の家族欄に俺の名前が無かったとき、直感的にそう思いました。今回の話も、半分、手切れ金的な感じなのかも」

 そう言うと、アンは大きなため息をついた。

 きっと彼はすぐにお酒に手を伸ばす。さあ、どうだろう。――と思っていたそのとき、アンの右手がグラスへ伸びた。

「もう一杯ください。今日はお客さんなのでいいですよね」

 飲み切ったグラスを、アンは台の上に下げながら言う。

「あー、ちょうど閉店のお時間で。すみませんねえ」

 わざとらしく断りを入れる香月さんを見て、わたしは自分のお酒にまったく口を付けていなかったことを思い出した。

 早く飲んで、締めの作業に入らないと。

 わたしは、カウンターの内側に置きっぱなしにしていた「香月スペシャル」を一息に口の中に流し込んだ。

「あ! 瀬野ちゃん! それはちょっと、やめといた方がいいな」

 香月さんが慌てて私の方向に手を伸ばす。しかし、ロックグラスに半分も注がれていなかったお酒は、すでにわたしの身体の中に消えていた。

「大丈夫ですよ。意外と甘いお酒で飲みやすかったです。それに量も少ないし」

 わたしは何食わぬ顔をして答えた。それを見て、香月さんは頭を抱えた。

「それは氷を溶かしながら飲む酒だから少ないんだよ……」

 はあ、もう、と落胆の吐息が聞こえる。それを見ていたアンが、香月さんに声をかける。

「何作ったんですか?」

「……香月スペシャル。飲みたいって言うから、つい」

 苦い笑いを浮かべる香月さんの横で、アンの表情は引き攣っていた。


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