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第85話:花瓶を彩る

 夜も更け、一際慌ただしいバータイムが過ぎる。

 慌ただしいと言っても、この世界では露骨に見せない。わたしは、この気品が好きだった。

「もう少し落ち着けばね、また違うとは思うんだけど」

 香月さんは、わたしが洗ったグラスを拭きながら話した。キュッキュッとグラスを磨く音がフロアに響く。

「そう言えば今日、アンはお休みなんですね。珍しい」

「実は例の社長さんに会いに行ってるらしい。今日しか時間をもらえなかったんだって。忙しいね、社長さんってのは」

 わたしはカウンターの花を変えていた。もともとは造花だった。予算があれば生花はどうかと提案すると、香月さんは「瀬野ちゃんが管理してくれるなら」と条件付きでOKしてくれた。それからたまに切り花を買っては、花瓶に生ける。

「今日、終わったら来そうじゃないですか」

 ボウルに水を張り、水中で茎を斜めに切る。本当は開店前に済ませておきたかったが、今日は客入りが良く、こんな遅い時間になってしまった。

「病んでるに1票」

 グラスの拭き上げを終え、ふわっとふきんを干す香月さんが言った。

「わたしは……むくれて既にお酒を飲んでいるに1票ですかね」

 余分な葉を取り、やっと花を生ける。茎の長さを調節しながら、見栄えのいいポジションを探す。

「今日はなんて花?」

「テッセンとアルケミラモリスですね。テッセンが大きな白い花の方で」

 わたしは、こっち、と満開のテッセンの花を指差した。アルケミラモリスの黄色の花はまだ咲いていない。紫の雄しべが印象的な白いテッセンの脇を、黄緑のアルケミラモリスがお淑やかに彩っていた。

「どこで買ってくるの? 毎度聞いたことない花ばかり」

 香月さんは、呆れと感心のちょうど真ん中を行くような声で聞いてきた。

「家の近くにあるお花屋さんです。ここからだと2駅向こうですけど、そこだと種類が豊富で。こっちは、なんか派手っていうか。わたしの欲しい花が置いてないんですよね」

 手を拭きながら、完成した花瓶を見て思わず、よし、と言う。

「そりゃあね、繁華街の近くにある花屋なんてみんなそうだよ。に寄るところだからね」

「お店?」

「そう。ここの道をもっと先に言ったら、いっぱいあるでしょ? 綺麗なお姉さんのお店」

 お姉さんっていうか、ママというか、と曖昧につぶやく。わたしはそれを聞き、ああ、とだけ言って頷いた。



 閉店間際、アンがお店のドアを開けた。

 襟のあるシャツに、ベージュのチノパンを合わせた、普段よりやや改まった格好をしている。

「来ると思ったよ。どうだった? 今日」

 先に話しかけたのは香月さんだった。

 アンはカウンターに座ると、クルッと丸イスで回ってみせた。

「わたしの勝ちですね」

 アンは酔っていた。瞼が今にも閉じそうで、その二重が必死に耐えている。手に持っていたハンドバッグも、椅子の上に放り投げたきり気に留めない。

「瀬野ちゃんなに飲む? 一杯作らせていただきます」

 大袈裟に悲しむ香月さんを見て、アンはむくっと顔を上げた。

「なに? 俺で遊んでたんですか」

 訝しむ彼に、わたしはそっと横からおしぼりを差し出した。

「いらっしゃいませ」

「ちょっと。教えてくださいよ」

 ふふっ、と堪え切れなかった笑いが溢れる。わたしは答えず、カウンターの中に戻る。一方で香月さんは、何も答えず、わたしが頼んだ「香月スペシャル」を作っている。

「俺にも一杯下さい。出演料」

「ほかのならいいよ」

「別にそんな酔ってないですよ」

 男たちの小競り合いが続く。その横で、わたしは素知らぬふりをして明日使うクラフトコーラのシロップを煮た。レモンの爽やかな香りが鼻を抜ける。

 アンがお店にやってきたと言うことは、今日会っていたという社長さんとのことで、何か話を聞いてほしいことがあるんじゃないだろうか。

 鍋を木べらでかき混ぜながら、わたしは声をかけるか否かを悩んでいた。シロップはふつふつと音を立てる。焦げないように、ゆっくりと全体を動かす。

「聞かないんですか? 人をそんな腫物みたいに」

 痺れを切らしたように、アンが口を開いた。面白くない顔をして、香月さんが作った弱いお酒を飲む。

「そう言うお前は、瀬野ちゃんに聞いてほしいって顔して俺をのけ者にしてさあ」

 香月さんはカウンターの内側に置いていた自分のグラスに口を付けた。

 みんな同じ行動をする。何かを呟いて、すかさず飲み物を流し込む。それに気づいてから、なんとなく自分は飲み物に手を付けづらくなって、せっかく作ってもらった「香月スペシャル」はまだグラスいっぱいに入っている。

「どんな人だった? いい人?」

 わたしは苦し紛れに一つ目の質問をした。

 いい人かどうか聞いてどうするつもりだ。アンにとっては、母を盗られた人に変わりはない。

 執着など知らないと言った涼しい顔をして、彼はまたグラスに口を付けた。

「別に。ふつうのオッサンでしたよ。確かにお金がありそうな身なりではありましたけど。時計とか着るものとか」

 アンは手首を振って、腕時計を見せる真似をした。


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