「あと、お願いできる?」
香月さんは片づけの途中で、奥の部屋をちょこんと指差した。
「お忙しかったですか? すみません、カウンター立たせちゃって。あの女性の相手まで……」
「ううん、全然。暇つぶしに帳簿でもしてるから。あとはふたりで頼むよ」
今日、初めてアンと視線が合う。お互いに、交わった先ですぐに逸らした。それを見ていた香月さんは、「今日のうちに仲直りしといてね」と釘を刺して、奥の部屋に入って行った。
お店に流れるミュージックが変わる。曲の継ぎ目を気にする余裕もないほどに、ふたりの会話は始まらなかった。沈黙が苦しい。ありがとうと言えばいい。ごめんと言えばいい。
「アン、わたし……」
「俺が鬱陶しく感じただけです」
「でもお礼……」
「なんで? 別に瀬野さんが気にすることじゃないでしょ」
ぶつ切りの会話が続く。
「嫌な思いをさせちゃったよね。アンには関係のないことだったのに」
女性に嫌味を言われるアンの横顔を思い出しては、あのときどうすればよかったのかをずっと考えている。
「関係ないからって、どうでもいいわけじゃない。瀬野さんだって、バーに来てまで患者さんのこと話してるじゃないですか。必死に考えている、あれは何ですか? 向こうの仕事が終われば関係ない人たちでしょ、みんな」
「そうだけど、でも患者さんだから」
「何が違うんですか」
話せば話すほど、噛み合わなくなっていく。わたしが余計なことを言って、アンはさらに苛立った。
「精神科の患者さんは、何か見逃していたら次はないかもしれない。見えないからこそずっと怖いの。だからずっと考えて……簡単には頭から離れないよ」
「俺だってそうです。キャリアがどうとか、瀬野さんのことなんも知らない人に言われたくない」
お酒の席だから、仕事中だからと気に留めないようにしてきたことが、アンの心をひどく乱していた。しかし、わたしには確信があった。
「ねえ、アン」
わたしが真正面からアンを見つめ直すと、それに気づいた彼は疑い怯えるようにこちらを見た。
「最近、気づいたの。わたし、芦谷さんが準備した保存容器を見るのが好きだって」
あの冷蔵庫にあるやつ、と言うと、彼は眉間にしわを寄せ、首を傾げる。
「芦谷さんが欠かさず準備してくれているから、わたしが欠勤しても、冷蔵庫の右奥には必ずある」
「だってそれは仕事だから」
「そう。でも、自分がいなくとも回っていくことをわざわざ確認して、そして安心するの。……アンにもそんな場所があればいいと思ってる」
彼は、奇妙なものを見るような目でわたしを見た。瞬きせず、怒るでもなく、嫌悪するでもない彼の表情は、得体の知れないものと邂逅したようだった。
「俺がいないとバーは回らない。明白です。それに、俺は困ってないですよ。不安にもなってない。瀬野さんのことだって――」
わたしは、とっさに彼の口元を手で覆った。彼の言いかけた言葉を遮る。
「アンの
聞きたくない。言葉にしてしまったら、それが確かに存在していることを認めることになる。偽物でもなんでも、一度存在してしまえば厄介だ。
それなのに彼は、自分の口を塞ぐわたしの手を外した。
「自分の気持ちは自分で決めます」
揺らぎのない瞳で、言葉を突っぱねた。わたしの手のひらには、アンの親指が食い込む。残りの4本の長い指が、わたしの手首をそらせた。
ごっこ遊びは続く。
アンはこれを
きっと彼は、新たな依存先を探しているだけだ。自分を必要としてくれる、困っている人を無意識に探し求めて。
長年、甲斐甲斐しく面倒を見てきたお母さんは、もう社長さんの元へ行ってしまった。そして今、アンはひとり、不安定になっている。関係性に自分の存在意義を見出してきたツケだ。気の迷い。勘違い。
彼はいつか気づくだろう。わたしがしっかりしていれば――
わたしは、一度引いた線の上を何度もなぞった。線が消えて、分からなくなってしまわないように。
*
あれから数週間が経つが、女性はカフェに来ていない。もちろんバーにも姿を見せることはない。芦谷さんが、「なんて言ってやったのよ」と機嫌よく聞いてきたが、どう答えるべきか悩んで、結局はぐらかした。
カフェタイムに平穏が戻った代わりに、バータイムは気難しかった。
和気あいあいと会話できる日もあれば、少しラインを飛び越えたアンを押し返す日もあった。香月さんはその度に複雑な顔をしたが、アンに何も言わなかった。
「最近のアン、面白すぎる」
アンが休みのバータイムで、香月さんがこぼした。わたしは反射的に眉を引き上げ、質問の意図を聞き返す。
「いやあね、こんな振られてるのに、まだ行くかって」
ああ、と不確かな声を漏らし、苦笑いをしてみせた。
「不思議だよね、
香月さんは出しっぱなしになっていたソース作り用の小さいボウルと計量スプーン、バケットを切ったあとのクープナイフをシンクへ移す。
「アンはただ、次の依存先を探しているように見えます。だから全然、わたしたち、香月さんの考えるような関係にはならないと思いますよ」
「依存先? どういうこと?」
「アンはお母さんを支えすぎていたんじゃないですかね。費やした時間も物も多い。その分、『自分がいないと』と思い込んでいる。でもそんなところに社長さんが出てきて、すべてが一気に崩れて。家族欄に名前すら書いてもらえていなかったなら、手近なところに走るのも分からなくはないなって」
「
わたしの自虐に、香月さんはまた複雑な顔をする。
「わたしは彼にとって、傷ついた世界で初めて目に入ったものにすぎないので」
今は経過観察中です、と言うと、香月さんは困ったように笑った。