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第84話:雛が一羽

「あと、お願いできる?」

 香月さんは片づけの途中で、奥の部屋をちょこんと指差した。

「お忙しかったですか? すみません、カウンター立たせちゃって。あの女性の相手まで……」

「ううん、全然。暇つぶしに帳簿でもしてるから。あとはふたりで頼むよ」

 今日、初めてアンと視線が合う。お互いに、交わった先ですぐに逸らした。それを見ていた香月さんは、「今日のうちに仲直りしといてね」と釘を刺して、奥の部屋に入って行った。


 お店に流れるミュージックが変わる。曲の継ぎ目を気にする余裕もないほどに、ふたりの会話は始まらなかった。沈黙が苦しい。ありがとうと言えばいい。ごめんと言えばいい。


「アン、わたし……」

「俺が鬱陶しく感じただけです」


「でもお礼……」

「なんで? 別に瀬野さんが気にすることじゃないでしょ」


 ぶつ切りの会話が続く。


「嫌な思いをさせちゃったよね。アンには関係のないことだったのに」

 女性に嫌味を言われるアンの横顔を思い出しては、あのときどうすればよかったのかをずっと考えている。

「関係ないからって、どうでもいいわけじゃない。瀬野さんだって、バーに来てまで患者さんのこと話してるじゃないですか。必死に考えている、あれは何ですか? 向こうの仕事が終われば関係ない人たちでしょ、みんな」

「そうだけど、でも患者さんだから」

「何が違うんですか」

 話せば話すほど、噛み合わなくなっていく。わたしが余計なことを言って、アンはさらに苛立った。

「精神科の患者さんは、何か見逃していたら次はないかもしれない。見えないからこそずっと怖いの。だからずっと考えて……簡単には頭から離れないよ」

「俺だってそうです。キャリアがどうとか、瀬野さんのことなんも知らない人に言われたくない」

 お酒の席だから、仕事中だからと気に留めないようにしてきたことが、アンの心をひどく乱していた。しかし、わたしには確信があった。


「ねえ、アン」

 わたしが真正面からアンを見つめ直すと、それに気づいた彼は疑い怯えるようにこちらを見た。

「最近、気づいたの。わたし、芦谷さんが準備した保存容器を見るのが好きだって」

 あの冷蔵庫にあるやつ、と言うと、彼は眉間にしわを寄せ、首を傾げる。

「芦谷さんが欠かさず準備してくれているから、わたしが欠勤しても、冷蔵庫の右奥には必ずある」

「だってそれは仕事だから」

「そう。でも、自分がいなくとも回っていくことをわざわざ確認して、そして安心するの。……アンにもそんな場所があればいいと思ってる」

 彼は、奇妙なものを見るような目でわたしを見た。瞬きせず、怒るでもなく、嫌悪するでもない彼の表情は、得体の知れないものと邂逅したようだった。

「俺がいないとバーは回らない。明白です。それに、俺は困ってないですよ。不安にもなってない。瀬野さんのことだって――」

 わたしは、とっさに彼の口元を手で覆った。彼の言いかけた言葉を遮る。

「アンのは、違うと思う」

 聞きたくない。言葉にしてしまったら、それが確かに存在していることを認めることになる。偽物でもなんでも、一度存在してしまえば厄介だ。

 それなのに彼は、自分の口を塞ぐわたしの手を外した。

「自分の気持ちは自分で決めます」

 揺らぎのない瞳で、言葉を突っぱねた。わたしの手のひらには、アンの親指が食い込む。残りの4本の長い指が、わたしの手首をそらせた。


 ごっこ遊びは続く。

 アンはこれをだと思っている。

 きっと彼は、新たな依存先を探しているだけだ。自分を必要としてくれる、困っている人を無意識に探し求めて。

 長年、甲斐甲斐しく面倒を見てきたお母さんは、もう社長さんの元へ行ってしまった。そして今、アンはひとり、不安定になっている。関係性に自分の存在意義を見出してきたツケだ。気の迷い。勘違い。

 彼はいつか気づくだろう。わたしがしっかりしていれば――


 わたしは、一度引いた線の上を何度もなぞった。線が消えて、分からなくなってしまわないように。



 あれから数週間が経つが、女性はカフェに来ていない。もちろんバーにも姿を見せることはない。芦谷さんが、「なんて言ってやったのよ」と機嫌よく聞いてきたが、どう答えるべきか悩んで、結局はぐらかした。

 カフェタイムに平穏が戻った代わりに、バータイムは気難しかった。

 和気あいあいと会話できる日もあれば、少しラインを飛び越えたアンを押し返す日もあった。香月さんはその度に複雑な顔をしたが、アンに何も言わなかった。


「最近のアン、面白すぎる」

 アンが休みのバータイムで、香月さんがこぼした。わたしは反射的に眉を引き上げ、質問の意図を聞き返す。

「いやあね、こんな振られてるのに、まだ行くかって」

 ああ、と不確かな声を漏らし、苦笑いをしてみせた。

「不思議だよね、

 香月さんは出しっぱなしになっていたソース作り用の小さいボウルと計量スプーン、バケットを切ったあとのクープナイフをシンクへ移す。

「アンはただ、次の依存先を探しているように見えます。だから全然、わたしたち、香月さんの考えるような関係にはならないと思いますよ」

「依存先? どういうこと?」

「アンはお母さんを支えすぎていたんじゃないですかね。費やした時間も物も多い。その分、『自分がいないと』と思い込んでいる。でもそんなところに社長さんが出てきて、すべてが一気に崩れて。家族欄に名前すら書いてもらえていなかったなら、手近なところに走るのも分からなくはないなって」

って」

 わたしの自虐に、香月さんはまた複雑な顔をする。

「わたしは彼にとって、傷ついた世界で初めて目に入ったものにすぎないので」

 今は経過観察中です、と言うと、香月さんは困ったように笑った。

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