「そういう働き方もあるのね。わたしがそのお姉さんくらいのころは、キャリアがどうって一番バタバタしてた時期だったなあ。こんなところで穏やかに働くなんて、考えもしなかった」
羨ましい、とわたしを見た彼女は、愉悦に浸っている。
「世の中、いろんな働き方がありますよ。うちは特に融通利きますから。このご時世に珍しく、超ホワイト!」
何も問題はなかったように流す香月さんの努力は、誰が見ても明らかだった。無下にするわけにもいかず、わたしはその横で静かに佇む。
「実は、このあとも仕事なの。相手方に時差があって。仮眠をとったら、朝方からミーティングでバタバタ。……あ、お酒を飲んだことは内緒ね」
女性は口元に人差し指を立てて、うふふ、と華やかに笑った。いい加減にはにかむ香月さんは、相槌が疎かになり始めた。
「お姉さん、肌がとってもきれい」
香月さんに飽きたころ、女性はわたしへ興味を戻した。
ありがとうございます、と控えめに言うと、「不規則な生活なんて知らないんでしょうね」と続く。
どうしてこんな話し方しかできないのだろう。言わずにはいられない、彼女のコンプレックスがあと少しで見えそうな気がした。
「前は不規則でしたよ。夜勤をしていましたので」
しかし先に出たのは、ちっぽけなわたしのプライドだった。
「前職はなにを?」
「看護師です。大学病院だったので、夜の勤務もそれなりに」
女性は、看護師ねえ、と言って冷めた視線を送る。
この目は、これまでも向けられた覚えがあった。看護師というだけで一目置かれる。それと同時に、気の強い女だと思われ、ときには性格に難癖をつけられる。そんな人たちはこぞって言った。「そうでもないと、やっていけない仕事でしょ」と。
「それがどうしてこんなところに?」
「今も働いていますよ。クリニックの非常勤ですけど」
「ああ、じゃあ
心臓が変な音を上げる。途端に呼吸が浅くなり、息苦しさを感じて、思わずアンを見た。彼がわたしの代わりに怒ってくれているのを見て、わたしは遅れて笑顔を作り直す。
「医療職は役職が多くないので、世間ほど出世を気にして働いている人は少ないかもしれません」
言い訳じみた本当の話だ。実情を伝えると、彼女はどこか面白くない顔をした。
「あなたは?」
「え?」
「役職」
彼女の攻撃性は、この自負だった。こちらを細い目でのぞき込んでは、品定めしている。
真っ赤なコスモポリタンは、あと一口を残して彼女のグラスの中で回った。香月さんは会話に入るタイミングを伺い、アンは今にも何か口にしてしまいそうだ。
「わたしはそういうのはせずに辞めたので……」
「あら、残念ね。もう戻れないでしょうに」
満足げに口角を上げ、彼女は最後の一口を飲み干した。
「資格仕事なので、中途採用も多いですよ。他所の病院から来た方が師長になることもよくあります。……わたしがそうというわけではないですが」
「へえ、知らなかった」
彼女の笑みにわたしが微笑み返したとき、アンは、オーダーしていないはずの水を女性に差し出した。
「大変ですね、知らないことばっかりで」
言葉の速度で行けば、グラスの底がカウンターテーブルに勢いよくぶつかる。
新たな火種になってしまう。
その一瞬に怯えたとき、アンはグラスを置く直前で手を緩めた。水が入ったグラスは静かに着地した。
「何か気に障ることでも?」
女性がアンに妙な笑顔を向ける。
「いいえ、必要だと思いましたので」
淡々と表情を変えずに話すアンがいっそう気にいったようだ。空になったカクテルグラスをカウンターの上に置き、頬杖をついてアンを見る。
「彼女、可愛らしいものね。分かるわ」
「少し酔いを醒ました方がいいですよ。それとも、シラフでも若い子捕まえて昔話してるんですか」
まあまあ、と香月さんがたしなめるころには、女性からお会計を言い渡された。
「
捨て台詞を吐くアンを、女性はふたたび睨みつける。早々に会計を済ませると、ブランドものの小さいバッグを肩にかけ、振り返ることもなくお店を出て行った。
お店の空気は、かつてないほど荒んでいた。香月さんはアンの肩にゆっくりと手を回す。
「どうしたんだよ」
「別に」
アンの苛立ちはまだ収まらない。乱暴な素振りをせずとも、瞳の色に感情が出やすい彼は見るとすぐ分かる。
「すみません。実はあの人、カフェに来るクレーマー……と言うか、日ごろから色々不満が多い方で……」
香月さんには伝えていなかった。まさかこんなに早く来店があると思わなかったのだ。
「なんだ、やっぱり。ふたりの様子がおかしいから、何かあると思った。……先言っといてよ~。話に付き合っちゃったじゃん」
すみません、と平謝りすると、香月さんは肩に入っていた力を抜いた。
「昼でも夜でも、困ったことがあれば俺に言ってね。瀬野ちゃんが溜め込むと、アンが代わりに爆発するみたいだから」
何? そのシステム、と茶化しながら、アンに絡んでいた腕を解く。
「あんま、客減らすなよ~」と、アンの肩をグーで小突いたが、アンは「あんなの客じゃない」と言って突っぱねる。彼は片づけの手を一切止めない。それを見た香月さんは、珍しく目を丸くした。