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第81話:見えるもの、見えないもの

 終業時間になり、芦谷さんが先に店を出た。わたしも自分のバッグを手にして、スマホの通知をチェックする。そんなとき、アンがふらりとわたしのすぐ隣にやってきた。

「ああいうときは、出勤の曜日は教えないんですよ。そしたらテキトーに俺と香月さんであしらっといたのに」

 もうフロアには誰もいない。それなのに、彼は小声で話す。一歩だけ、これまでより近い距離に来て。

「あの人は話したそうに見えたの。だからバータイムの方がいいかなって。なんでも作ってくれる香月さんもいるから、飲み物の数にとやかく言わないだろうし」

 わたしは引いたラインを超えないよう、忠実に守りながら、必要なことだけを話した。きっちりとするのは得意だった。おかげで、職場であったことはないが、面倒ごとに巻き込まれたこともない。

「俺もいますよ」

 それなのに、アンは探りを入れるような会話をしてくる。試しているのだ。まるでティーンのごっこ遊びだ。

「そうだね」

 これでいい。これで間違いはないはず。

 スマホをバッグにしまい、足早に店を出ようとしたとき、アンがわたしの腕を掴んだ。

「もう、悩んでもくれないんですか」

 わたしの手首を握る手に力が入る。先ほどまで水を触っていた冷たさが、わたしの喉を締め付けた。

「本気言ってる?」

「ほかに何があるんですか」

 この前と同じだ。彼は決定的なことを言わない。それなのに、どんどん核心を突いてこようとする。

「アンはなんで……」

 わたしも、言葉にするのを避けていた。それにこんなことを聞いても、求める答えは返ってこない。

 彼との距離が曖昧になったあの日、アンはお母さんの入院騒ぎで参っていた。誰かに寄りかかりたくなるのはごく自然なことだ。

 大丈夫、分かっている。


「でも俺の見た目、好きでしょ?」


 突然、彼は言い淀むこともなく、平然と口にした。

 彼の意図が汲み取れず、一言も返せない。自分の表情が険しくなるのを自覚してもなお、頬を緩めることはできない。

「なんでそう思うの」

「だって瀬野さん、俺のことよく見てる」

 見てません、と言い返すと、見てますよ、と彼は嬉しそうに言った。

 香月さんに連れられ、初めて「Toute La Journée」のドアを開けたとき、眉が濃く、輪郭がくっきりとしたアンの横顔は目を引いた。いつも何かに憂いている瞳も、どこかミステリアスな雰囲気を醸す。海外の血が入っていることを知ってからは、妙に納得し、そしてお母さんの話を聞いてからは、その瞳の奥に触れたくなった。

「だから、そのまま中身も見てほしいんです」

 言われるがまま、わたしはアンを見上げた。

「……『だから』?」

「何でもいい。とにかく『見よう』と思ってもらえるなら。この容姿も悪くないと思える」

 すぐ隣に立つ彼は、まだ私の手を離さない。違和感がどんどん大きくなり、わたしたちを隔てていく。

――ベトナムの言葉もしゃべれないのにこんなだと、色々面倒なだけで。

 ある訪問の帰り道、アンと、お母さんのアパート前であったときのことを思い出した。アンはお父さん譲りの外見に、どこか嫌気がさしているようだった。

「一体どういう……」

「別に。昔からを見てくれる人がほしかっただけです」

 瀬野さんはなってくれるでしょ? と、聞かれ、わたしは答えなかった。

「わたしは外見だけを見てるわけじゃないよ。雰囲気とか、仕草とか、もっといろいろ……」

 彼の良さは、外見が語っているわけじゃない。もっと内側から溢れ出るものだ。

 しかし、ジェスチャーが空回りした。

「俺は、瀬野さんのそういうところ……」

 アンは握っていた手を引いて、わたしを抱きしめた。すっぽりと覆われるほど大きい身体は、あの夜以来だ。

 あのとき、抱き寄せたのはわたしだった。アンがあまりにも悲しかったから、安堵を分け与える一心で手を引いた。わたしに身を預けるアンは、子どものようだった。

 でも今は違う。急に体中が熱を帯び始める。頬を越え、耳の端まで熱い。あの夜はまったく感じなかった感情を見つける。

「何も言わないで」

 なんで? と頭の近くでアンがささやいた。

「聞きたくないですか」

 わたしは精一杯の力で、彼の身体を押した。勝算があると言わんばかりのその態度が気に入らなかった。

「外から見えるものなんて、わずかだよ。アンが言っていることってなんだか……」

 このまま受け入れたら、アンは自分を肯定して生きていけるのだろうか。悪くないと思ったのは、本当にお父さん譲りのエキゾチックな見た目のことなのだろうか。

「実際はどうですか。瀬野さんは俺がこんなじゃなければ見向きもしなかったでしょ」

「それは違うよ」

 ようやく解かれた手は、空しく宙に浮いている。

「瀬野さんは、いつだって受け入れられてきたんでしょうね」

 わたしは蔑視する彼を、どんな顔で見返せばいいか分からなかった。 


「もう、今日はやめときましょう」

 お疲れさまです、と言って、アンはカウンターの中へ戻っていった。今までの数分が夢だったかのように、彼は淡々とお店の準備をする。もう彼の視界にわたしは存在しなかった。

 すっぱりと切られた空間に戸惑う。わたしは彼に「お疲れさま」も言えず、お店を出た。

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