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第80話:夜の誘い

「飲み物、これしかないの? 全然増えないんだけど」

 開口一番、やはりメニューについてのクレームだった。

「申し訳ございません。1番新しいものですと、先日お召し上がりになっていたクラフトコーラと、ジャスミンミルクティーになります」

 わたしはメニューを指さしながら、ふたつの商品をピックアップして紹介した。

「知ってるわ。カフェなのに飲み物が充実してないなんて、ざんねん」

 わざとらしい言葉尻に、カウンターで別のお客さんのランチを作っている芦屋さんが、今にも食ってかかろうとしている。

「お酒はお飲みになりますか」

「お酒? 夜は飲むけど」

 女性は聞いてもいない、お酒の話をし始めた。有名なワインの銘柄を並べ、カクテルだとこのベースがいいとか、あれはもう飲まないとか、とにかく話し足りない様子だ。

「ここ、夜はバーになるんです。おいしいカクテルが豊富で、きっとお好みのものもあるかと思います。今度、もしご都合が合えば」

 カフェタイムは食事の提供を考えると、飲み物に多く時間を割くことができない。既存のスタンダードなお茶やジュースに加えて、クラフトコーラとジャスミンミルクティーだ。飲み物が少ないわけでもない。

 きっと彼女が求めるイメージと一致していないのだろう。

 わたしは、カフェタイムで対応はできないとやんわり伝えるつもりで女性にバーを案内した。

「お姉さん、夜も働いてるの? 苦労人なのかしら?」

「ええ、水曜日と金曜日の週二日だけですが」

 女性は鼻で笑った。お金に困っているとでも考えているのだろう。

 すると、芦屋さんがずかずかとやってきて、カウンターからいつもより派手な音を立ててお皿を置いた。

「お待たせいたしました。お召し上がりください」

 愛想のない、より一層トゲトゲした言葉に、女性は、狼狽えながら受け取る。

「じゃあその曜日に行くわ」

 彼女はフォークを手に取り、食事をし始めた。


 彼女が帰ったのは、ランチタイムもピークを過ぎたころだった。15時のカフェタイムも切り抜け、片付けと来週のクラフトコーラのシロップを煮出しておくだけになった。

「なんであの人、あなたに固執するのかしらね」

 芦谷さんは鍋を火にかけ、クラフトコーラのシロップをゆっくり混ぜながら、焦がさないように見張っている。

「あなた、夜になすりつけるんだもの。笑っちゃったわ」

 うふふ、と珍しく笑う。

「仕方ないじゃないですか。飲み物は、もうすでに5種類はある。一般的なカフェなら少なくないはずです……。それで足りないって言うなら、香月さんにカクテル作ってもらうしかないですよ!」

 たまたまお酒を好きだったことが功を奏した。バーへ誘導されることを何も思っていない女性は、むしろ自分だけが誘われたことにいい気になっていた。

「雅也さん、女性に甘いからねえ」

 頼りにならないんじゃない、と芦谷さんがつぶやく。

「きっと上手くやってくれます。夜のお仕事の方って、聞き上手だし、扱いになれてるはず……!」

 そう話していると、急にお店のドアが開き、アンが入ってきた。オーバーサイズの白いトップスに、ゆったりとした黒いワイドパンツを合わせる。昨日とは違う私服姿は、わたしがマンションの部屋を出たあとに着替えたものだった。夜の出勤には少し早い。

「バーテンダーにあまり期待しないでくださいね」

 お店に入るなり、表情冷たくそう言い放った彼は、控えめに挨拶をするとすぐ奥の部屋へ行ってしまった。

「どこから聞いてましたかね、彼」

 さあ、と返す芦谷さんは煮沸した瓶にシロップを注ぐところだ。

――期待しないで。

 昨晩からいろんな彼の表情を見過ぎたせいか、さきほどの言葉がどこかもの寂しく、いらないものまで絡まる感情を覚えた。


 アンが奥の部屋から出てくるころ、わたしと芦谷さんの退勤時間が近づいていた。

「さっきの話、何をバータイムに押し付けるって話ですか」

 エプロンの結び目を解くわたしに、彼は聞いてきた。

「押し付けるってわけじゃないよ。ってだけ」

 必要以上に、彼に気を許さないようにする。一度間違うと、人との距離はどんどん狂っていく。

「誰を?」

「カフェの飲み物の数に不満がある人」

 なにそれ、と言われたが、分かんない、と答えた。わたしだってなぜか知りたい。

 アンは思い出したように、カウンターの中に貼ってあったメモを見た。日中のカフェタイムで提供しているドリンクが書かれている。

「普通でしょ」

「うん、そう」

 そう言えば、彼女はコルクボードの不満も言っていた。目に付いたものに向かっていっているのかもしれない。

「……とんだ厄介者じゃないですか。勘弁してくださいよ」

 露骨に嫌がるアンを見て、芦谷さんはまたニヤリと口元を緩める。

「その子が相手するみたいだから。まあいいじゃない」

 綺麗に畳んだエプロンを決まった棚にしまいながら、芦谷さんは、わたしが自分がいる曜日を伝えたことをアンに話した。

「あと聞かせてね」

 芦谷さんは上機嫌にわたしの背中を押す。

「昼って、血の気多い人しかいないんですね」

 怖い、怖い、と茶化しながら、アンは夜の準備を始めた。

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