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第79話:資格?

 冷蔵庫を開け、下準備や冷凍ものの在庫を確認する。芦谷さんがいつも管理してくれている分、これまでも困ったことはない。ただ変わらないことを確認するだけ。安心は、いつもこうして手に入る。


「そう言えばね、あの突っかかってきた女、昨日も来たわよ」

 パンケーキの粉と卵を混ぜ合わせながら、芦谷さんはわたしに言った。話を聞くと、それはキャリアーウーマン風の女性だった。クラフトコーラのメニューにいちゃもんを付け、最終的には拗ねて帰っていった。

「今日も来たら嫌だなぁ」

 わたしが愚痴をこぼすと。芦谷さんは「話さなきゃいいわよ」と凄んだ。

「丁寧にいちいち相手しないの」

「じゃあ芦谷さんが出てくださいよ……」

「良いわよ、別に。あんなのなんてことなんだから」

 ボウルにゴムベラがリズムよく当たる音がする。パンケーキの重たい生地をかき混ぜる芦谷さんは、さほど気にする様子もなく接客を引き受けてくれた。

 最近は言い返すことの方が難しくなった。話を聞くことに重きを置く精神科で働き始めた弊害だろうか。「傾聴」という言葉をカルテで見ない日はない。話を聞くことからすべては始まる。

 しかし実際は、がいる。話ができる状態にする必要があった。

 怒っている人も泣いている人も、落ち着いてもらう必要がある。死にたい人には、刃物や大量の薬などから離れ、安全な場所にうつってもらってからがスタートだ。すでに怪我をしていれば、手当や受診の必要性を吟味する。もちろん、その前準備が「入院による内服調整」になることもままある。

「『相手が話せる状態になるまで待つ』って、結構気が遠くなりますよね」

「なに? 向こうの仕事の話?」

 ラップをかけたボウルを冷蔵庫にしまい、芦谷さんは次の準備に取り掛かっていた。野菜を切ったり、特性のソースを作ったり、ランチタイムにやることは決まっている。すっかりカフェの仕事にも慣れ、こうして取り留めのない会話をする。

「看護師として働いているときは、いいですよ。今勤めているのは精神科なので、それが一番の仕事と言っても過言ではないですし。でも、こちらで接客業をしているときは、なかなかそうもいかないっていうか。全然上手くいかないんです」

 乾いた布巾を畳みながら、気づくと芦谷さんに相談ごとを持ちかけていた。

 訪問中は、話ができる状態になるまでに時間がかからない人が多い。看護師が来る日時はあらかじめ決まっていて、訪問時間も無限にはない。そして、話したい内容の多さ。――通所先でのトラブル、薬の副作用、外に出れなかったこと、を投げられること、を囁かれること、そして今日見た夢のこと。すべて聞いていては時間が足りないほどに、話したい人は多い。

 全部知っていてほしいのかもしれない。症状や特性が変な方向に向いていないか、自分は自分なのか、ちょっとしたことが気になって、輪をかけて心細くなる。

 考え込んでいると、芦谷さんは目を点にして言った。

「あら。だってあなた、今はただのカフェのバイトだもの!」

 サッサッと手際よく、刻んだ食材を先ほどとは別のボウルへ入れていく。わたしはフロアの掃除をしながら、芦谷さんに食い下がった。

「そうですけど、勉強した分、こっちの仕事にも使えることがあったらって……」

「無理よ。だって、ここではあなたのこと、誰も看護師だと思わないわ」

「別に看護師と思ってほしいんじゃないんです。別に資格がどうとかじゃなくて、お客さんとの関わりの中で生かせることがあればって」

 しかし、何を言っても芦谷さんはばっさりと斬っていった。

「今まで上手く行ってきたのは、あなたが『看護師』だったから、っていうのも大きいはずよ。この感覚は、医者とか看護師とか、権威の中で生きてきた人には分からないかもしれないけど」

 わたしは彼女の手元の野菜と変わりない。少々不貞腐れながら、彼女が切ったボウルの野菜を眺める。

「そう言うもんですかね」

「あなたが、こうしておばさんの話を真に受けないのと同じよ」

「わたしは芦谷さんの話、聞いてますよ!」

 イスを拭いていた手を止め、わたしは芦谷さんをまじまじと見つめた。

「どうだかね」

 彼女はニヒルな笑みを浮かべ、また切り終わった野菜をまとめたボウルにラップをかけた。


 開店時間を過ぎたころ、カフェ利用のお客さんが何名か来店し、飲み物の注文が入った。クラフトコーラとアイスティーがよく出る。わたしは急いでオーダー分の飲み物を準備し、トレイに乗せて席まで運ぶ。

――カラン、コロン。

 入口のバンブーチャイムがフロアに鳴り響き、「いらっしゃいませ」と言いながら振り返った。そこに立っていたのは、例の女性だった。今日もパソコンのバッグを持ち、ヒールをカツカツと鳴らして歩く。

 芦谷さんが、開いている席に女性を案内した。注文は以前と同じものだった。提供を終えたわたしは、そうっと彼女の横を通り過ぎようとする。

「ねえ、お姉さん」

 案の定、呼び止められる。彼女の席の横に立ち直し、「はい、どうされました」とわざとらしく聞いてみた。芦谷さんがカウンターの中からこちらを睨んでいる。怖い顔が視界の端に入り、あとで伝えなきゃ、と内心苦笑いする。

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