「8時50分に出ても、余裕で間に合いますよ」
寝る前、アンに言われるがまま、スマホでアラームをセットした。彼のベッドに入り、狭いような、広いような、このどうしようもない空間にひとりで横になる。アンはシャワーから戻ってくると、クローゼットからブランケットを引っ張り出し、ソファーに投げ置いた。
「そんなの一枚でいいの?」
「大丈夫ですよ」
おやすみなさい、と言うと、返っては来なかった。
久しぶりの夜更かしだった。わたしはすぐに眠りに落ちて、気づいたら朝になっていた。
「おはようございます」
スマホのアラームを止めて振り向くと、アンがキッチンに立っているのが視界に入る。
「おはよう。……ごめん。朝ごはん、気を遣わせちゃった?」
急いでベッドから這い出る。床に足を付けたとき、ジャージがフローリングに付いた。何重にもまくったが、足の長さはいっそう敵わない。
「何時に起きたの?」
「俺ですか? 寝てないですよ」
けろっと白状するアンを思わず睨み返した。アンは料理を作りながら、ふたたびこちらを振り返った。
「寝てますから、俺」
「いやいや……」
「昨日はほぼ仕事してないんですよ? 出勤して、飲んで、寝ただけ」
自虐的に笑い飛ばす彼は、手元でプレートに盛られたサラダに少し重なるよう、フライパンから目玉焼きを滑らせた。すぐそばのトースターのつまみは、あと少しで元の位置に辿り着く。
「もうできますから。早く準備しちゃってください」
アンに言われるがまま、わたしは洗面所へ向かった。身支度を整え、カフェへの出勤準備をする。初めて来た部屋だと言うのに、すべてが恐ろしくスムーズに回っていた。昨日と同じ服に袖を通す気まずさに目をつむり、アンのいる部屋に戻る。
「じゃあ食べましょう。そこ座って」
ソファー前のガラステーブルには、すでにワンプレートの朝食とスープが並んでいた。野菜に目玉焼きにウインナー、そしてパンにコーンスープ。朝からこんなにちゃんと作っていることに驚き、感心する。
「いただきます」
彼は何も言わない。わたしの言葉は宙に浮いたままだった。そこに何の問題もなかったかのように、フォークでトマトを刺し、口元へ運ぶ。次はウインナー、そして目玉焼きの黄身を割る。中からとろりとした半熟の黄身が流れ出した。
「アンは『おやすみ』って言わないの?」
わたしは焼き立てのパンを手に取り、口に頬張った。この歯がゆさに合う言葉が見つからない。なにより、余計なことを言いそうだった。
「『おやすみ』ですか?」
フォークを持つ手を止め、彼はゆっくりと眉をひそめた。
「『いただきます』もそう。なんて言ったらいいか分からないんだけど、……ひとりみたい」
そうだ。わたしが感じた違和感は、この孤独感から来るものだ。
彼は気にならないのだろうか。
「瀬野さんは、俺に言ってたんですか」
他に誰がいるの、と喉元まで出かかる。
アンは「知らなかった」とだけ言って、離してしまったフォークの上で手を迷わせ、妥協するようにパンに手を伸ばした。
「『おやすみ』も『いただきます』も、ふたりでいることの、お互いの存在を確かめ合う手段じゃないの」
呆れて口調がきつくなる。
どうして今まで気づかなかったのだろう。彼に「おやすみ」と言ったのは昨日が初めてだったが、普段、お店でお客さんが「いただきます」と言っても、確かにアンは何も言わない。カウンター越しに手を動かしながら、伏し目がちに目を細めるだけだった。
横に座る彼の顔をちらりと見ると、知らない顔をしていた。
「なんか、いいですね」
時が止まったように、目をほんの少しだけ見開いて、俯いている。綻ぶのを我慢しているような、今にも微笑んでしまいそうな柔らかな口元をしていた。
慣れない道を歩く。アンのマンションからお店へ向かう道中、夜には見えなかった景色をまじまじと見つめる。
お店の入口を見つけ、わたしは螺旋階段を下りる。鍵を開けていると、ちょうど芦谷さんが階段を下りて来た。
「おはようございます」
この前の勤務は……と言いかけると、先に芦谷さんが言った。
「おはよう。体はどうなの」
芦谷さんは開口一番でわたしの体調を気にかける。こんなときも愛想がいいとは言えないが、彼女なりの気遣いが険しい顔に出ている。わたしは高熱ではあったものの、数日で軽快したことを伝えた。
芦谷さんの興味は、わたしの体調のこと、そして一人暮らしで困らなかったのかということに向いていた。そりの合わないアンがわたしの代打でシフトに入ったことで、小言のひとつでも言われるかと考えていた自分が恥ずかしい。
「そう言えば、あなた、今日11時からじゃなかった? 雅也さんが連絡してきてたわよ」
あ! と思わず声を上げる。今日はランチで忙しくなる直前からの出勤でよかったことを思い出した。
「無理はしないのよ。若くたってだめ。ろくなことがないから」
昨日のバータイムを閉店まで手伝ったことは話していないのに、まるでバレているかのように、叱る口ぶりだ。
「すみません、ご迷惑をおかけしました」
いつもの軽口など叩けるはずもなく、わたしは彼女に深々と頭を下げる。
「別に。……それに、どうせひとりでも回せるんだから」
そう言い捨ててぷいっとそっぽを向くと、芦谷さんはお店に入っていった。
アンに、「もうひとりシフトは厳しい」と香月さんに伝えるよう言っていたのに。
体の奥底からじんわりと温かなものがやってくる。自然と溢れた笑みとともに、閉まりかけたドアを開け、彼女のあとを歩いた。