シャワーの前に、持ってきていた化粧ポーチを取り出した。化粧を落としながら、鏡を見る。
バーで働くようになってから、”夜の仕事”という点を気にして、化粧ポーチを持ち歩くようにしていた。普段はマナー程度の化粧しかしていない。むしろ化粧が濃いとクレームを入れられることもある。だが、夜はどうだろう。
「香月さん、何も言わなかったなぁ」
せっかく持ち歩くようになった化粧ポーチは、このお泊りで初めて日の目を見た。明日の用意に困らないことをラッキーに思いながら、わたしは服を脱いだ。
シャワーを終えて部屋へ戻ると、アンはソファーでくつろいでいた。壁掛けの薄型テレビでは、もう早朝一番のニュースがついている。
――今日の天気は曇り。ところにより、夕方から雨が降るところがあるでしょう。
ニュースキャスタ―の女性が、この辺りのお天気の原稿を読む。
「シャワーありがとう」
アンはわたしの声で振り向いた。彼は返事もそこそこに立ち上がり、食器棚から取り出したマグカップに、お茶を注ぐ。ボトルにティーパックが浮かんでいる。
「どうぞ」
ちょこんと頭を下げてから、そのマグカップを受け取るとハーブの香りが鼻をかすめた。
「アンっておうちでもこうなんだ」
何色とも言いがたい、薄い草原のような水面を見て、思わず口にした。
「別に、これは既製品ですよ。好きなメーカーがあるだけで」
キッチンの上の方の棚を開け、バスケットから取り出したのは、外国語で書かれたパッケージのハーブティーだった。
わたしがティーパックで作るものなんて麦茶くらいだ。それに、たとえ既製品だとしても、アンの手際に野暮ったさがない。飲み物を注ぎ入れる瞬間に熱が見える。
「アンの手が好き。飲み物に向ける視線も……。バーテンダー、辞めないでね」
ぱっと出た言葉だった。うっかり口を滑らせ、じわじわと迫る気恥ずかしさに顔が熱くなる。
それでも、彼が忘れてしまっても、バーでの仕事に迷いを感じた彼を見ないふりはできなかった。ああ、えっと、と動揺するわたしを、面を食らった顔のアンが見つめている。どこからともなく、次の気恥ずかしさの波がやってきた。
「俺、なんかやってますね、これ」
気を取り直し、疑いの目でわたしを見るアンは、酔いが醒める前の自分の行動を疑い始めた。わたしが「何もないよ」といくら言っても、アンは口元に手を当て考え事をする素振りをしたり、時折頭を掻いたりした。
「辞めるって騒いだんですか。その、……香月さんの前で」
急に少年のように揺れた声に、心臓を掴まれる。していないことを伝えると、アンは心底安心したようにため息をついた。
あのときのアンは、バーテンダーの仕事が合っている、と言ったわたしの言葉で不安定になっただけだ。それを見た香月さんは、強いお酒を出したことを謝りながら、アンを奥の部屋に連れて行った。寄りかかる背は、ほんの少しだけアンの方が高かった。
「辞めませんよ。少なくとも、香月さんがあの店やっているうちは」
アンは、意外にもきっぱりとした口調で言い放った。
「香月さん?」
どうして香月さんの名前が出てくるのだろう。
わたしが聞き返すと、アンはソファーのある方へ逃げるように戻っていった。
「あの人に全部教わったので」
ガラステーブルに置かれていた自分のマグカップを取り、アンはシンクがあるこちらへ戻ってきた。
「香月さんは、アンにとっての先生なんだね」
ふたりの年の差は10歳ほどだ。そこに師弟の雰囲気はなかったが、バディのように動くふたりを見て、特別なつながりを感じていた。
「……俺は高卒なんです。瀬野さんみたいに食っていける資格があるわけでもない。父親は見たこともないし、母親もあんなだし。お金はあったためしがない。まともに『大人』をやっていくイメージをずっと持てませんでした」
洗い物をしながら、アンは独り言のような声量で話をした。
「香月さんは、見かねた俺を拾ってくれたんです。別に、香月さんもろくな大人じゃないですけど」
へへ、と笑いながら楽しそうに話す彼を見て、自然とこちらも穏やかな気持ちになる。
「アンも香月さんに声をかけられて、あのお店に入ったんだね。知らなかった」
あと少しのところまで減っていたハーブティーを急いで口にし、わたしはシンクへマグカップを置いた。そしてアンに食器拭きの布巾の在りかを聞いて、隣に付く。
「てっきり、バーテンダーに憧れ入ったのかと思った」
「違いますよ。当時は未成年でしたし。今思えば、なんも分かってなかった」
「未成年?!」
「最初はチョウリホジョ。合法です」
彼はわたしの言葉を待っていたかのように、にやりと勝ち誇った顔をして答えた。わたしは黙ってふたつのマグカップを拭き上げる。
「……夜の仕事なら、俺みたいなものでも許容してもらえる気がしたんですよね」
誰かに聞かれることを望まないささやきを、そっと暗い夜空に放つ。それは美しく、どこか物悲しい。
アンのこういうところが、目を離せない。
「あんまりさ、恩に着なくともいいんじゃないかな。アンはそういうのばっかり」
いつか死んじゃうよ、と苦言を呈すわたしに、アンは逃げるように視線を泳がせた。
しかし、ほどなくして観念したのか、彼はこちらを向いて微笑みかけた。
「と言うか、手だけですか」
急に忘れていた熱さを頬に思い出す。
「ほかは検討中です。……まだ」
「”まだ”?」
「”まだ”!」
カーテンの隙間から、ブルーアワーの光が差し込んだ。ふたりのささやかな笑みとともに、一際暗い、この夜は明ける。
[第二章 おわり]